まれるほど曲っている。苔《こけ》の生えた鱗葺《こけらぶ》きの屋根、腐った土台、傾いた柱、汚れた板目《はめ》、干してある襤褸《ぼろ》や襁褓《おしめ》や、並べてある駄菓子や荒物《あらもの》など、陰鬱《いんうつ》な小家《こいえ》は不規則に限りもなく引きつづいて、その間に時々驚くほど大きな門構《もんがまえ》の見えるのは尽《ことごと》く製造場であった。瓦《かわら》屋根の高く聳《そび》えているのは古寺《ふるでら》であった。古寺は大概荒れ果てて、破れた塀から裏手の乱塔場《らんとうば》がすっかり見える。束《たば》になって倒れた卒塔婆《そとば》と共に青苔《あおごけ》の斑点《しみ》に蔽《おお》われた墓石《はかいし》は、岸という限界さえ崩《くず》れてしまった水溜《みずたま》りのような古池の中へ、幾個《いくつ》となくのめり込んでいる。無論新しい手向《たむけ》の花なぞは一つも見えない。古池には早くも昼中《ひるなか》に蛙《かわず》の声が聞えて、去年のままなる枯草は水にひたされて腐《くさ》っている。
長吉はふと近所の家の表札に中郷竹町《なかのごうたけちょう》と書いた町の名を読んだ。そして直様《すぐさま》、この頃《ごろ》に愛読した為永春水《ためながしゅんすい》の『梅暦《うめごよみ》』を思出した。ああ、薄命なあの恋人たちはこんな気味のわるい湿地《しっち》の街に住んでいたのか。見れば物語の挿絵《さしえ》に似た竹垣の家もある。垣根の竹は枯れきってその根元は虫に喰われて押せば倒れそうに思われる。潜門《くぐりもん》の板屋根には痩《や》せた柳が辛《から》くも若芽の緑をつけた枝を垂《たら》している。冬の昼過ぎ窃《ひそ》かに米八《よねはち》が病気の丹次郎《たんじろう》をおとずれたのもかかる佗住居《わびずまい》の戸口《とぐち》であったろう。半次郎《はんじろう》が雨の夜《よ》の怪談に始めてお糸《いと》の手を取ったのもやはりかかる家の一間《ひとま》であったろう。長吉は何ともいえぬ恍惚《こうこつ》と悲哀とを感じた。あの甘くして柔かく、忽《たちま》ちにして冷淡な無頓着《むとんちゃく》な運命の手に弄《もてあそ》ばれたい、という止《や》みがたい空想に駆られた。空想の翼のひろがるだけ、春の青空が以前よりも青く広く目に映じる。遠くの方から飴売《あめうり》の朝鮮笛《ちょうせんぶえ》が響き出した。笛の音《ね》は思いがけない処で、妙な
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