製造場の烟出《けむだ》しが幾本も立っているにかかわらず、市街《まち》からは遠い春の午後《ひるすぎ》の長閉《のどけ》さは充分に心持よく味《あじわ》われた。蘿月は暫《しばら》くあたりを眺めた後《のち》、それとなく長吉の顔をのぞくようにして、
「さっきの話は承知してくれたろうな。」
長吉は丁度茶を飲みかけた処なので、頷付《うなず》いたまま、口に出して返事はしなかった。
「とにかくもう一年|辛抱《しんぼう》しなさい。今の学校さえ卒業しちまえば……母親《おふくろ》だって段々取る年だ、そう頑固ばかりもいやアしまいから。」
長吉は唯《た》だ首を頷付かせて、何処《どこ》と当《あて》もなしに遠くを眺めていた。引汐の堀割に繋《つな》いだ土船《つちぶね》からは人足《にんそく》が二、三人して堤の向うの製造場へと頻《しきり》に土を運んでいる。人通りといっては一人もない此方《こなた》の岸をば、意外にも突然二台の人力車《じんりきしゃ》が天神橋の方から駈《か》けて来て、二人の休んでいる寺の門前《もんぜん》で止った。大方《おおかた》墓参りに来たのであろう。町家《ちょうか》の内儀《ないぎ》らしい丸髷《まるまげ》の女が七《なな》、八《やっ》ツになる娘の手を引いて門の内《なか》へ這入《はい》って行った。
長吉は蘿月の伯父と橋の上で別れた。別れる時に蘿月は再び心配そうに、
「じゃ……。」といって暫く黙った後《のち》、「いやだろうけれど当分辛抱しなさい。親孝行して置けば悪い報《むくい》はないよ。」
長吉は帽子を取って軽く礼をしたがそのまま、駈《か》けるように早足《はやあし》に元《もと》来た押上《おしあげ》の方へ歩いて行った。同時に蘿月の姿は雑草の若芽に蔽《おお》われた川向うの土手の陰にかくれた。蘿月は六十に近いこの年まで今日《きょう》ほど困った事、辛《つら》い感情に迫《せ》められた事はないと思ったのである。妹お豊のたのみも無理ではない。同時に長吉が芝居道《しばいどう》へ這入《はい》ろうという希望《のぞみ》もまたわるいとは思われない。一寸の虫にも五分の魂で、人にはそれぞれの気質がある。よかれあしかれ、物事を無理に強《し》いるのはよくないと思っているので、蘿月は両方から板ばさみになるばかりで、いずれにとも賛同する事ができないのだ。殊《こと》に自分が過去の経歴を回想すれば、蘿月は長吉の心の中《うち》は問わず
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