わ。私なんかよりもっと大きなくせに、それァ随分出来ない娘《こ》がいるんですもの。」
「この節《せつ》の事《こっ》たから……。」お豊はふと気がついたように茶棚から菓子鉢を出して、「あいにく何《なん》にもなくって……道了《どうりょう》さまのお名物だって、ちょっとおつなものだよ。」と箸《はし》でわざわざ摘《つま》んでやった。
「お師匠《っしょ》さん、こんちは。」と甲高《かんだか》な一本調子で、二人《ふたり》づれの小娘が騒々しく稽古《けいこ》にやって来た。
「おばさん、どうぞお構いなく……。」
「なにいいんですよ。」といったけれどお豊はやがて次の間《ま》へ立った。
長吉は妙に気《き》まりが悪くなって自然に俯向《うつむ》いたが、お糸の方は一向変った様子もなく小声で、
「あの手紙届いて。」
隣の座敷では二人の小娘が声を揃《そろ》えて、嵯峨《さが》やお室《むろ》の花ざかり。長吉は首ばかり頷付《うなずか》せてもじもじ[#「もじもじ」に傍点]している。お糸が手紙を寄越《よこ》したのは一《いち》の酉《とり》の前《まえ》時分《じぶん》であった。つい家《うち》が出にくいというだけの事である。長吉は直様《すぐさま》別れた後《のち》の生涯をこまごまと書いて送ったが、しかし待ち設けたような、折返したお糸の返事は遂に聞く事が出来なかったのである。
「観音さまの市《いち》だわね。今夜一所に行かなくって。あたい今夜泊ってッてもいいんだから。」
長吉は隣座敷の母親を気兼《きがね》して何とも答える事ができない。お糸は構わず、
「御飯たべたら迎いに来てよ。」といったがその後《あと》で、「おばさんも一所にいらッしゃるでしょうね。」
「ああ。」と長吉は力の抜けた声になった。
「あの……。」お糸は急に思出して、「小梅の伯父さん、どうなすって、お酒に酔《え》って羽子板屋《はごいたや》のお爺《じい》さんと喧嘩《けんか》したわね。何時《いつ》だったか。私《わたし》怖くなッちまッたわ。今夜いらッしゃればいいのに。」
お糸は稽古の隙《すき》を窺《うかが》ってお豊に挨拶《あいさつ》して、「じゃ、晩ほど。どうもお邪魔いたしました。」といいながらすたすた帰った。
六
長吉は風邪《かぜ》をひいた。七草《ななくさ》過ぎて学校が始《はじま》った処から一日無理をして通学したために、流行のインフルエンザに変って正
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