《まぶた》を静かに閉じた。そして唇を動かした。また咽喉がごくりと鳴った。
「駄目だ駄目だ。水なんか呑ませじゃ駄目だ。婆様は水を呑ませっとすんぐに寝小便だから……」
 こう言っている声を、たしかにそう言っている声をお婆さんは聞いたように思った。
 蒼白《あおじろ》い瞼《まぶた》の陰《かげ》には、いろいろな場面が繰《く》り展《ひろ》げられた。六十幾年間の自分自身の苦闘の姿であった。そこには、寝小便ばかりではない。食事最中にまで、自分の懐《ふところ》で糞《うんこ》をした伜や孫がいた。そして、一旦老衰の床に就くと、一杯の水さえ自由に与えられない自分自身の姿が、自分の瞼の裏に描かれていた。
 障子の上で、ぶぶうっと紙に突き当たっていた蠅が一匹、お婆さんの瞼へ来てとまった。お婆さんは閉じたままの瞼をひくひくと微動させた。蠅はすぐに飛び去った。睫毛《まつげ》の間には、小粒の涙滴《るいてき》が、一列に繁叩《しばたた》き出された。

     二

 お美代が土瓶《どびん》と飯茶碗とを持ってはいって来た。足音でお婆さんは布団の襟に眼をこすりつけた。
「婆《ばば》さん、ほら、水持って来したで。」
「うむ、水!――どうも眼が霞《かす》んで。」
 お婆さんは口まであけて、顎《あご》をこすりつけているように、顔を布団に埋めながら低い声で言った。
「あ、お美代が? 今朝来たのが?」
「うむ、今朝。」と、うなずきながら、お美代は茶碗に水を注ぎ満たした。
「大変《おっかねえ》まだ早ぐ来たで。――どんな風だ大崎の方は? 仕事の早い処だぢ、田畑《たはた》の仕事は片付いてしまったがあ。」
 お婆さんは静かに寝がえりながら、低い消え入るような声で吐切れ吐切れに言った。お美代は茶碗を取ってお婆さんの方へ出した。お婆さんは布団の中から、痩せた青筋の節《ふし》くれだった大きな手を出したが、手はなかなか伸びそうもない。手よりも先に、頤《あご》の方が出て行った。
「なんだけえ、まず、お美代。汝《にし》の手は……」
 お婆さんは、ごくりごくりと咽喉《のど》を鳴らしながら水を呑んだ。お美代はすぐに眼を伏せて、膝の上の自分の手を見た。玄《くろ》い肌には一面の赤い皸《ひび》だった。節々《ふしぶし》は、垢切《あかぎれ》に捲かれた膏薬で折り曲げもならぬほどであった。
「新田《にいだ》の方はそんなに仕事がひどえのがあ、お美代。―
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