文学に現れたる東北地方の地方色
(仙台放送局放送原稿)
佐左木俊郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)躊躇《ちゅうちょ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)馬鹿|聟《むこ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+姜」、621−下−5]
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 私は常に東北地方を愛している者であります。私は(日本中でどこが一番好きか?)という質問に対して、いつも(東北地方)と答えるのに躊躇《ちゅうちょ》したことはありません。これは話者《はなして》の私が東北人であるための身贔負《みびいき》でもなく、聴者《ききて》の皆さん方が東北人であるからお世辞を申し上げるわけでもありませんのでして、私の偽らざる感想なのであります。然《しか》らば(何故《なぜ》そんなに東北地方が好きか?)と申されますと、これは理窟ではなく感情なのでありますから寔《まこと》に困るのでありますが、私は何故か、優秀な文芸作品から受けると同じような、熱情的なものや、素朴なものや、思考的なものや、真実なものや、純情的なものなどの、陰影を感じさせられるからであります。明朗とか軽快とか――近頃の流行のモダンとかシックとか――いうようなものは、元より求むべくもありませんが、明朗であるよりも暗鬱である方が、軽快であるよりも鈍重である方が、さらに遙かに芸術的陰影を深めているという観点からいたしましても、東北地方は、日本中のどこよりも、私の気持ちに融合するのであります。
 東北地方の地方色が、文芸作品によって紹介されましたのは、極く最近のことでありまして、東北地方を目標としての最も古い文学である芭蕉《ばしょう》の『奥の細道』にいたしましても、僅かに二百四十年ばかり、徳川中期のことであります。それも、あのような紀行記ではあり、芭蕉の主観があまりに勝ち過ぎていて、地方色が出ているとは言い難いのであります。遠く『日本書紀』や『万葉集』や『古今集《こきんしゅう》』などにも、既に東北地方は紹介されてはいるのでありますが、それは記録としてであり、感想としてでありまして、本当に東北地方の地方色の紹介されましたのは、やはり、明治以降というべきであります。

 併し、古い時代の伝説や説話などにも、既に東北地方の東北地方らしい雰囲気――いかにも東北地方らしい味わい――というようなものが出ていまして、それが現代文学の上に縦に繋《つな》がっているということは、興味深いことであります。
 東北地方のそういう記録、伝記、昔話などのうちで、就中《なかんずく》、黄金に関するものや、産馬に関するものや、馬鹿|聟《むこ》に関する話など、現代文学に繋がるもののうちでは最も面白いもののようでありますが、黄金に就いては「黄金《こがね》花咲くみちのく[#「みちのく」に傍点]の……」というような歌もありますように、昔の人達は、東北地方をば自然金の産地のように思っていたようであります。黄金産出のことを記録してある最も古いものは『続《しょく》日本紀』であろうと思いますが、それによりますと、聖武《しょうむ》天皇の天平《てんぴょう》二十一年の二月、百済《くだら》の王敬福という者が、今の、宮城県遠田郡涌谷村字黄金迫の黄金神社附近から、黄金を獲《と》って朝廷に献じたのが、日本で黄金の発見された最初のようであります。今年から千百八十四年前のことであります。このとき、天皇は大いに嘉尚し給い、幣を奉じて畿内七道の諸社に告げ、……尋《つい》で東大寺に行幸、盧舎那仏《るしゃなぶつ》に礼賽あり、百官の位階を進めて天下に大赦し、……天平二十一年を改めて天平感寶元年となし、……陸奥国の調庸を免ぜらるること三年、小田郡は永免となり、其の年の天下の田租を免ぜられ、獲金に関する民人には位階を授けらる。……とあります。
 それから、源平時代になりますと、牛若丸が京都の鞍馬山を出まして平泉に行きますときに、牛若丸を平泉まで伴《つ》れて行ってやったというあの金売吉次《かねうりきちじ》の父親も、宮城県栗原郡高清水附近の産で、高清水近辺から沢山の自然金を持って京都へ上《のぼ》ったという伝説があります。即ち、京都の或るお姫さまが、清水谷観音《きよみずだにかんのん》の(汝の夫たるべき男はみちのく[#「みちのく」に傍点]にいる)というお告げで、遙々《はるばる》と東北まで来て見ましたが、そんな男はどこにも見当たりませんし、そのうち路《みち》を迷って山へ這入《はい》りますと、炭焼き小屋がありまして、そこの炭焼き男に一夜の宿を乞うたのでありますが、その男が炭俵を編むのに使っている帙櫨《ちつろ》は、黄金の塊《かたまり》だったのであります。そこでお姫さまが(これは黄金と言って貴重なものだ)と申しますと、炭焼き男は(こんなものは裏の山には幾らでもがす)と言って、小屋の裏へ伴れて行ったのでありますが、そこには自然金がごろごろ転《ころ》がっていましたので、お姫さまは(この男こそ私の夫たるべき人だ)と考えまして、早速結婚をし、その自然金を馬に積んで京都へ上ったというのであります。そして、黄金を見て、早速結婚をする気になったこの近代的お姫さまから生まれたのが、金売吉次《かねうりきちじ》だというのでありますが、これは単なる伝説のようでありまして、どこまで信じていいかわかりませんけれども、東北地方を金産地としての伝説としては、寔《まこと》に面白い話であります。

 産馬の方では、佐々木四郎高綱の、宇治川の先陣のときの池月《いけづき》(生※[#「口+姜」、621−下−5])の話が最も有名でありますが、池月と並び称されている磨墨《するすみ》もまた、南部|三戸《さんのへ》の産だったということであります。或る記録によりますと「源頼朝のとき宇治川先陣に有名な磨墨は三戸の産。生※[#「口+姜」、621−下−7]は七戸上野村より出で、熊谷直美の子小次郎の乗馬|西樓《せいろう》は三戸に産す。」とありますが、生※[#「口+姜」、621−下−9]の産地は、宮城県玉造郡一栗村字池月の池月神社附近の方が、本当のようであります。陸奥や出羽から良馬の出たことは、『続日本紀』や『類聚三代格《るいじゅうさんだいきゃく》』などにも見えていますし、とにかく、東北地方から良馬を産出したことは早くから知られていまして、藤原俊成なども『長秋詠藻』の中で「みちのくのあらのの牧の駒だにもとればとられてなれ行くものを」と詠んでいます。

 昔話とか馬鹿聟話とかいうようなものは、風俗学や民俗学の方により多くの繋《つな》がりを持ちまして、文学の方にはあまり這入《はい》って来ていないようであります。柳田国男氏などは、特殊な研究家でありまして、郷土文芸の発生を、それらの昔話の中に見出そうとしているようであります。仍《すなわ》ち、その昔話こそ、郷土に於ける唯一の文学であるという見方であります。

 東北地方の地方色が、曲がりなりにも、文学の上に現れましたのは、やはり、芭蕉の『奥の細道』に於いてのそれを最初のものとしなければなりますまい。
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「五月朔日の事也。其夜飯塚にとまる。温泉あれば湯に入て宿をかるに、土坐に莚を敷てあやしき貧家也。灯もなければ、ゐろりの火かげに寐所をまうけて臥す。夜に入りて、雷鳴、雨しきりに降て、臥る上よりもり、蚤蚊《のみか》にせゝられて眠らず持病さへおこりて消入斗になん。」
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 これが芭蕉の眼に映じた飯塚辺の農家――たぶん農家だろうと思いますが――の有り様であります。そのような、貧しい農家の有り様は、今にして、東北地方の暗鬱な空気が感じられます。そのような暗鬱な生活の中にある生活は、真山青果氏も『南小泉村』の中で、如実に言っています。
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「百姓ほどみじめ[#「みじめ」に傍点]なものは無い。取分け奥州の小百姓はそれが酷《ひど》い、襤褸《ぼろ》を着て糅飯《かてめし》を食つて、子供ばかり産んで居る。丁度、その壁土のやうに泥黒い、汚い、光ない生涯を送つて居る。地を這ふ爬虫《むし》の一生、塵埃《ごみ》を嘗《な》めて生きてゐるのにも譬《たと》ふれば譬へられる。からだ[#「からだ」に傍点]は立つて歩いても、心は多く地を這つて居る。」
[#ここで字下げ終わり]
 青果はこう言っているのであります。私もこれには同感であります。同時にまた、東北地方の農家の炉端《ろばた》を歌ってよくその地方色を出している詩として、佐伯郁郎君の『故里の爐辺を想ふ』をも見逃すことは出来ない。
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「故里の爐辺を想ふと
心が明るくなる。

呑助の夫を助けて来た老婆の手
長い間土を掘つて来た老爺の手
多数の家族を抱へて苦闘してゐる若者の手
ずんぐりして 荒れてはゐるがみずみずしい娘の手、
取入れも済んで
木枯が吹く頃になると
今まで離れ離れであつたそれ等の手が一緒に爐辺に集まるのだ、
大根漬を噛み
渋茶を啜つて
作物《さく》の出来不出来
陽気の加減を語り合ひ
ぼんぼんと燃える焚火にあつたまるのだ、
喜びも 悲しみも
みんなそこで語り合ひ
みんなそこから生れるのだ、
故里の爐辺を想ふと心が明るくなる。」
[#ここで字下げ終わり]
 佐伯郁郎君はそう歌っています。これは東北地方特有の風景であります。東北独特の地方色であります。

 芭蕉の『奥の細道』の中に松島の風光が詳しく記されてあります。
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「抑ことふりにたれと 松嶋は扶桑第一の好風にして 凡洞庭西湖を恥《はじ》ず 東南より海を入て 江の中三里 逝江の潮をたたふ 嶋々の数を盡して 欹《そばたつ》ものは天を指ふすものは波に匍匐 あるは二重にかさなり 三重に畳みて 左にわかれ 右につらなる 負るあり 抱るあり 兒孫愛すかことし 松の緑こまやかに枝葉汐風に吹たはめて 屈曲をのつからためたるかことし 其気色|※[#「穴かんむり/目」、第3水準1−89−50]《よう》然として 美人の顔を粧ふ ちはや振神のむかし 大山すみのなせるわさにや 造化の天工 いつれの人か筆をふるひ詞を盡さむ」
[#ここで字下げ終わり]
 芭蕉はこう記してありますが、これは、単にその風景の形態だけを描いているもので、そこには何等の色彩――地方色――をも出ていないように思います。私はむしろ島崎藤村の『松島だより』を執りたく思います。島崎藤村は、『松島だより』の中で、松島を描くと同時に、東北地方の地勢のことにも触れていますが、これなどは、その地方色をよく描き出しているということが出来ましょう。
 島崎藤村『松島だより』
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「東北の地勢は広濶なる原野なり。山嶽の偉大なるもの相比肩して互に馳せ互に没するは中国の奇葩《きは》、東北の山脉はしからず、寧ろ広大なる丘陵の原野を走るが如き観をなせり。山もとより少なからず、しかも変幻出没して雲表に豪然たる偉容を作れるは少なし。中国の山は立てり、東北の山は横はれり、紫苑《しおん》の花萩の花女郎花もしくは秋草野花をもてかざりとなせる宮城野の一望千里雲烟の間に限り無きが如きは、独り東北の地勢にして中国に見るべからざるの広野なり。この地勢に作られこの原野にさそはれて、吾国第一勝の松島は成れり。」
[#ここで字下げ終わり]
 藤村の眼は鋭いと思います。

 仙台を取り入れているものでは徳富健次郎の『寄生木《やどりぎ》』があります。
 徳富健次郎『寄生木』
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「出れば停車場の広小路。人の声、車の響《おと》、電燈、洋燈《らんぷ》の光、賑やかで、眩しくて、美しくて、良平は胆《きも》を潰した。眼前には巍々堂々《ぎぎどうどう》たる洋館、仙台ホテル、陸奥ホテル、和風では針久、大泉、其他数知らぬ旅館がある。懐淋しい良平は、毛布包をかゝへて、芒然として広小路に立つて居た。「御得意の阪本でござい。毎度御引立難有う御座りやす。奈何《いかが》ですか旦那、大分
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