いた。
「約束の時間より、一時間も過ぎているんだよ。」
 青年紳士のそんなことを言う声がして、扉はバタンと閉まってしまった。そして美佐子と青年とは扉の外で囁《ささや》き合《あ》っていた。しばらくすると、美佐子だけが、微笑《ほほえ》みながら部屋の中へ這入《はい》って来た。
「会社の方なのよ。これから、活動に伴れて行ってくれるって言うの。伸ちゃんも一緒に行かないこと?」
「私、一緒に、行ってもいいの?」
「いいも悪いも無いわ。私よりも、伸ちやんを伴れて行って上げようって言うのよ。さあ! 早く支度をなさいよ。」
 美佐子は急《せ》きたてるようにして言った。そして、彼女は大急ぎで顔の白粉《おしろい》を掃《は》き直《なお》しにかかった。
「随分《ずいぶん》時間がかかるんだね。」
 青年紳士は、そんなことを言いながら部屋の中へ這入って来て、煙草を燻《くゆ》らし燻らし歩き廻った。

     五

 映画館を出たときには五時を過ぎていた。美佐子はひどくそわそわしていた。青年紳士は、ゆったりと、煙草を燻《くゆ》らしながら地面を蹴るようにして歩いた。
「伸ちゃん! ちょっと。」
 美佐子は立ち止まりながら言った。青年紳士は二人を置いて前へ前へと地面を蹴って行った。
「私達ね、会社の人達と、ちょっと集まることになっているのよ。伸ちゃんも一緒に伴《つ》れて行きたいんだけど、場所が場所だから、伸ちゃんは先に帰ってよ。ね!」
 伸子は、突然に突き飛ばされたような気がした。
「場所がカフェでなければ、一緒に伴れて行くんだけど……」
「いいわ。私一人で帰っているわ。」
 明るい声で伸子は言った。そして二人は青年紳士の後を追って小走《こばし》った。
 青年紳士は、とあるカフェの前に蒼紫《あおむらさき》のネオンサインを背負って立っていた。
 美佐子はすぐにそれを見つけた。
「じゃ、先に帰ってね。」
 美佐子はそう宥《なだ》めるように言って、青年紳士の立っている方へ駈《か》けて行った。青年は煙草を挟《はさ》んだ手を眼のところまで上げて、微笑《ほほえ》みながら伸子への挨拶を送っていた。

     六

 夜更《よふ》けになっても姉の美佐子は帰って来なかった。伸子は寂しい気がした。伸子はふらふらと街へ出て行った。靄《もや》を罩《こ》めた街を、伸子は、あのネオンサインのカフェの前まで来ていた。伸子はそこの
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