いいえ」と「はい」とだけで押し通すのであった。妻が「峻さんのシャツは真っ黒じゃないの? お脱ぎなさい」と言っても、彼は「代わりのシャツが無いんです」とは言うことが出来ないのだ。顔を赤くして学生服のボタンをはずしたりかけたりしているだけなのだ。そして妻が、私の古いシャツを出してやると、初めて裸になるという始末であった。妻はしばしば「あなた方は、従兄弟《いとこ》同士なら、ときどきは何か言うものよ。唖だって、従兄弟同士なら、手|真似《まね》で語り合っているわよ」というような非難をあびせるのであった。
       *
 私と峻とが、ひどく面喰《めんくら》わされたのは、妻の姪《めい》の貞子であった。貞子は、峻よりも約半年ほど後から私の家に来て、峻と同じように私の家から女学校へ通うことになったのであるが、十七というのに私の前へ来て「叔父様! では、どうぞお願いいたします」と言うのである。私は別に用意があるわけでは無かった。その咄嗟《とっさ》の間に何か言おうと考えたのであるが、咽喉《のど》の奥の方で「う、う、あ」というように、結局は咽喉を鳴らしただけで赤くなってしまった。ちょうどそのとき運悪く、峻も私の傍《そば》にいたのであったが、貞子は峻の前に手を突いて「どうぞ宜敷《よろし》くお願いいたします」と挨拶をした。峻は真赤になって何遍も頭をさげるようにしながら「はい」と挨拶を返した。貞子は急に笑い出してしまって「あら! はい[#「はい」に傍点]だって。おかしいわ。ねえ、叔父様!」と言うのである。私と峻とは、この能弁家にすっかり弱らされた。
       *
 私は、妻と貞子との性格の影響で、峻の性格が少しずつ変わって行くに相違ないと思っていた。貞子は、朝の出がけには屹度《きっと》「行って参ります」と手を突いていうのであるし、帰って来ると又「ただ今帰りました」というのであるから、峻も今に屹度そんな風になりはしないかと、私は内心ひどく恐れていた。私は全くその挨拶に対する挨拶に困るのだ。妻の気転で、貞子は私には決して挨拶をしないようにしていたが、それでも、妻が外出している時などは、私はひどく平静を失うのだった。併し、よく考えて見ると、私達一家の者の性格の動向は、積極的な妻と貞子との方へ動かずに、消極的な私の性格に向けて動いているのであった。いつまで経《た》っても、峻は依然として挨拶をせずに出掛けて行って、いつのまにかこっそりと帰って来ては本に噛《かじ》りついているという具合だった。そしてどうかすると、大変遅くなってから帰って来るようなことも度々であったが、私はもちろんのこと、妻までが、最近は「どこへ行って来たんです?」というような質問はしないようになっていた。妻のそういう態度は、貞子に対してまで段々私と同じようになって来ることが感じられた。貞子もしばしば遅くなって帰って来るらしいのに、妻は決して「どこかへ廻ったの?」というような質問をしないらしかった。それが、峻の遅い時に限って、貞子もまた遅く帰って来るらしいのに、妻は気がついていたのかどうか、それに就いてはなんの一言も訊《き》かずにいるらしかった。
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 初秋の晩、私は一人だったので、玄関に鍵をかけて置いた。峻も貞子もまだ帰っては来なかった。私はそして「峻と貞子は一体どこを歩いているのだろう?」というようなことをぼんやりと考えていた。九時が過ぎてから、何方《どちら》かが玄関をがちゃがちゃと揺《ゆ》す振《ぶ》った。やがて「誰か開けて頂戴よ」という貞子の声がしたので、私は立って行って扉をあけてやったのであるが、むろん「どこを歩いていたんだね?」などとは訊かなかった。ただ、私は貞子の靴先を見ただけである。貞子の靴先は、夜露のためしっとりと濡れていた。そしてその上に、細かな褐色の秋草の顆《み》がいっぱいについていた。初秋の高原地帯の草原の中を歩くと、屹度くっついて来る顆《つぶら》である。私はそしてすぐ自分の書斎に帰った。峻はそれから一時間ほどして帰って来た。これは一晩中夜露に濡れて立っていようと、決して「誰かあけてくれ」と声をかけることの出来る青年ではない。ただ、無暗《むやみ》とがちゃがちゃさせていた。併し、貞子はどうしたのか立っては行かないので、私は仕方なく又立って行ってその扉をあけた。そして私はすぐに峻の靴先を視詰《みつ》めていた。やはり彼の靴先も露でしっとり濡れ、その上に秋草の顆《み》がいっぱいについていた。褐色の、楕円形の花のような、細かな細かなその顆《つぶら》は、貞子の靴先についていたのと、全く同じものであった。同じ草地からの顆《つぶら》であった。私はひどく明るい朗らかなものを感じさせられた。そして私は腹の底で「峻も貞子も、注意して靴先を拭って帰るものだよ」というようなことを言わず
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