走り出した。続いて交叉点の交通巡査がピリピリーを鳴らして信号器が赤燈に廻転した。
路を遮られて追っ駈けようの無くなった彼は、舌打ちをして四辺《あたり》を見廻した。と、そこの足掻《あが》きをするような爆音を立てながら停まっている乗合自動車の横に、婦人が、何かを思い惑うようにして立っているのだ。自動車へ乗ったと思ったのは錯覚だったのだ。併し婦人は、驚異の眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》っている彼の顔を見ると、すぐに乗合自動車のステップに足をかけた。彼は、動き出したその乗合自動車に飛び縋《すが》った。
車内は山の手へ帰る人達で一杯だった。婦人は漸く中の方に腰をおろすことが出来た。彼は無理矢理に這入《はい》って行った。そして彼は婦人の前に立った。と、婦人は、彼の顔を見上げた。彼は浄《きよ》い恥ずかしさを感じて、視線を距てるためにポケットから夕刊を抜いて拡げた。
併し、彼は夕刊を読むのでは無かった。彼の空想は婦人の美しい指の上で跳っていた。あの指の上でなら、この指環は、きっと素晴らしい芸術的な雰囲気を描き出すに相違ない。あの白い指の上で、青く赤く紫に、きらきらと、輝いて……。だが一体この話はどう切り出すべきだろう?……。
乗合自動車は停留所ごとに人溜まりを呑んで、身じろぎも出来ないほど詰め込んだ胃袋を揺《ゆ》す振《ぶ》りながら、ごとごと走った。靄《もや》に包まれた柳並木の濠端《ほりばた》に沿うて、ヘッド・ライトの明るい触角を立てながら、日比谷から桜田門、三宅坂の方へと上って行った。
銀座はまだ賑わっていた。その裏露路だった。一方はコンクリートの上層建築。一方はトタン屋根のバラック。その薄暗い街燈の下で、婦人は一人の男と立ち話をしていた。男は毛の立ったハンチングを目深に冠って鼠色の二重廻しを着ていた。
「おかしいったらありやしないわ。先方では逆に、いつの間にか私の後をつけているらしい様子なのよ。今頃、また一所懸命に私を見つけてるかも知れないわ、きっと。可哀想に!……」
婦人は静かに笑いながら話していた。
「実際、おめえの手にかかっちゃ叶わねえな。全くおめえの指は素晴らしい指だよ。俺なんか、今夜はまだ蟇口《がまぐち》一つだ。」
「しかも私のなんか、バスの中でなのよ。先様が一所懸命で私に注意しているそのチョッキの、内ポケットで拾ったんですからね。」
「うむ。素晴らしいもんだ。どれ、もう一度よく見せな。おめえの指先も素晴らしいが、それも大したもんじゃねえか。どれ、見せな。」
「見せてあげるけど、手をつけさせるわけには行かないわ。そら御覧。さあ!」
婦人は右手を高く上げた。その靭《しなや》かな白い指の先に、素晴らしく大きな青光りのダイヤが、街燈の光線を受けて、青く赤く紫に、きらきらと光った。
[#地から2字上げ]――昭和四年(一九二九年)『新潮』八月号――
底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
1984(昭和59)年4月14日初版
入力:大野晋
校正:湯地光弘
1999年12月6日公開
2005年12月20日修正
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