先を遮《さえぎ》って幽遠さを見せている。それに赤い夕陽が斜めに光線を投げて、木立の中に縞《しま》の赤い明るみを織り出し、尚|一入《ひとしお》の奥床しさを添えている。彼は煙草を燻《くゆ》らしながら、この瞬間就職難の事を忘れて、落ち着いた気持ちで木立の中を歩いていた。
歩いている中《うち》に、彼は大きな蜻蛉《とんぼ》の屍が足先に落ちているのを見つけた。
「大きな蜻蛉だな。一体どうして死んだのだろう……。」と呟《つぶや》きながら、彼はそこに蹲《しゃが》んでその屍を視《み》た。そのまわりに小さな黒|蟻《あり》がうじゃうじゃと寄っている。そして大きな眼球のついた蜻蛉の頭は、小さな黒蟻の群に運び去られたのか、死体のまわりには落ちていなかった。
彼は煙草の煙を胸一杯に吸って、その黒蟻の群にぷうと吹きかけて見た。するとその中の幾匹かが、これは湛《たま》らないと言ったふうに、大急ぎで逃げ出した。けれども未《ま》だその大多数は執拗《しつよう》に喰い付いていた。彼はかたいじになって、今度は、蜻蛉の胸のあたりに喰い付いている一群に、煙草の吸い差しを押し付けようとした。すると、執拗に喰い付いていた蟻どもも、火の熱さには耐えかねて、遂にその群は散り始めた。そしてその煙草の火が蜻蛉の身体《からだ》に触れたと思った瞬間に、既に首を失っている蜻蛉の屍は、ばたばたっと暴れまわった。彼は驚いた。全く死にきってしまって、小さな蟻の群に運ばれつつある蜻蛉の屍が、急に暴れまわったのであった。まだ死にきらずにいるのならともかくも、既に首さえも無い屍が、何によってその運動を支配されているのだろうと思った。首の無い蜻蛉が……。
彼は幼い時分に、春先の野路《のみち》に、暖かい陽光を浴びて、ちょろちょろと遊んでいる蜥蜴《とかげ》に、石を投げつけた事があった。するとその尾が切れて、ぴんぴんとその辺を跳《は》ねまわった。その時はただそれを不思議に思っただけで深い疑問を抱きはしなかったが、後になって、蜥蜴の尾の、胴体と別々の運動をするのは、別れたその瞬間に、痛いと働いている神経が、連続的に、切れた後までもその尾の中に働いているのだと思った。だが蜻蛉の場合は、既に神経の運動を掌《つかさど》るものを失っているのだ。
彼はもう一度蜻蛉の屍に火を押し付けた。首の無い蜻蛉はまたばたばたと大きな翼を振り立てた。――神経を掌る脳は無くなっても、局部に残る神経が、未だその機能を失ってはいないのだなと思った。死んだ鮎《あゆ》を焼くとピンとそりかえったり動いたりする……、鰻《うなぎ》を焼くとぎくぎく動く、蚯蚓《みみず》を寸断すると、部分部分になって動く……。
豚も、額《ひたい》をガンとやられて、首をごそごそとやられたら、手や足や、身体全体を、ひくひくと顫《ふる》え動かして苦しむだろう……と彼は思った。それを思うと、あの無邪気そうな豚を、自分の手で殺すのは、いくら金になっても厭な気がした。仲田は、ころりっと死んでしまうと言ったが、粘土細工じゃあるまいし、倒れたが最後そのまま動かなくなる筈《はず》が無いと思った。その他に自分の食って行く道が無いというなら仕方も無いが。
蟻は一匹の王を戴《いただ》いて毎日朝から晩まで働いている。一匹も怠《なま》けるものがなく、そして大きな仕事にぶつかれば大勢一緒になってそれに掛かる。皆仕事を持っているから一匹として生活の不安を抱いているものが無く働いている。この共産主義的蟻の社会には、怠ける者も狡《ずる》い者も王者を倒そうとする者も無いから、立派に成立して行く。人間にもこうした不安の無い社会が出来ないものだろうかと思った。出来たら、不安なく働けて、そして自分の持って生まれたものを伸ばして行く事が出来るだろう。そういう社会に住んでいれば、怠け者でない限り、狡い者で無い限り、王者を敬うものである限り、終生生活の不安も無く職を失う憂えも無く生きられるのだが、などと彼は考えた。
「それにしても、あの小さな蟻ん坊が、よくこんな大きな蜻蛉を殺して、そして引っ張って行くものだな。」と彼は呟《つぶや》いて、その首の無い蜻蛉の屍を拾い上げて見た。すると蜻蛉の足から翼にかけて、細い細い絹絲のような蜘蛛《くも》の巣が、幾本も寄り集まってもち[#「もち」に傍点]の様に喰い付いている。それから視《み》ると、飛んでいる中に蜘蛛の巣にかかって、ばたばたして下に落ちたのを、蟻の群に攻められたのだと想像されるのである。
彼はまた考えた。
蟻は労働者のように終日こつこつと働いて食うし、蜘蛛は資本家のように、暑い夏の日を、梢《こずえ》から枝へとハンモックを釣って、その上に寝ていて食っている。だが両方とも、自分が生きるために他の動物を殺すことは少しの躊躇もないらしい。そしてそれが生きようとするものの正
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
佐左木 俊郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング