死ぬようなごとはがすめえがね。併し、皆んながああして、田圃ばかりじゃ足りなくて、※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]を飼ったり養蚕をしたりして、一生懸命になって稼いでいでそんでも困ってのでがすからね。」
森山は心の中で固く拳を握っていた。
*
路の両側から蛙の声が地を揺がしていた。煉瓦を焼く煙は、仄赤く、夜の空を焦していた。
権四郎爺は、二間道路の路幅一っぱいに、右斜めに歩いては左斜めに歩き、左斜めに歩いては右斜めに歩き、蹌踉《よろめ》きながら蛇行した。河北煉瓦製造会社の社長の家で、酒を呑まされて来てはいたが、別段酔っているのでは無かった。近頃彼が夜歩きをすると、部落の青年達がよく彼に突当って来るので、それを防ぐためだった。蛇行していれば、何方《どっち》から出て来て突当ろうとしても、何等自分の威厳を傷つけられた風に見せずに、身をかわして了えるからだっだ。
「ふむ! おかしくてさ。馬鹿野郎共め!」
吐き出すようにして、権四郎爺は、何度も何度も言った。それで権四郎爺は幾分か自分の不安な気持を慰められたのであった。
「馬鹿野郎共め! おかしくて仕様ねえ。栗原権四郎はな、これでも……」
其とき、誰かが、どんと右肩に突当った。
「おっとっとっとっと危ねえ! 誰だね?」
「気をつけやがれ! 老耄《おいぼれ》め! なんて真似をして歩きやがるんだ?」
相手は闇の中から若い声を鋭く投げつけた。
「誰だね? 宮前屋敷の者かね? 夜路はお互に気をつけるごったな。俺は栗原権四郎だが、おめえ、宮前屋敷の誰だね?」
「貴様の名前なんか聞き度くねえや。老耄め! ほんでも俺様の名前を聞きてえんなら教えるべ。俺は宮前屋敷の藤原平吾様だ。今夜だけは許してやるから今から気をつけろ。棺箱さ片足踏込んでやがる癖に、何んの用があって煉瓦場さなど行きやがるんだ。老耄め!」
「まあまあ、夜路はお互に気をつけで……」
権四郎爺はそう言って逃げ出した。
併し権四郎爺は其処から五六十間も歩き去ると、そのまま黙ってはいなかった。
「馬鹿野郎! 平吾の馬鹿野郎め! 法律はな、そう無闇にゃ、許さねえぞ。善良な人民の交通を妨害しやがって、それで法律が許して置くか? 馬鹿野郎共め!」
権四郎爺は散々に平吾を罵倒した。最早人家の多い宮前部落の、駐在所の近くまで来ているので、彼は気が大きくなっているのだった。同時に、法律に対する彼等の恐怖感をも唆らずには居られない気がした。――この前に煉瓦工場が繁昌したとき、彼が煉瓦工場と地主達との間を奔走して、宏大な良質の田圃の底を煉瓦にさせたと云うので、彼を脅かそうとした部落の青年達が、法律の名によってどんな目に会されたか? ――あの当時の彼等が、法律に対して抱いた恐怖観念に、部落の奴等をもう一度叩き醒ましてやらなければならないと権四郎爺は考えたのだった。
「なあ、野郎共! 法律は許さねえぞ。平吾の馬鹿野郎め! 善良な人民の交通を妨害しやがって、それで罪人でねえと云うのが? 平吾の馬鹿野郎! 犬野郎! 畜生! 猿! 栗原権四郎が罪人と睨んだ以上、法律が許して置くか? 平吾の馬鹿野郎め!」
「老耄め! なんだって他人《ひと》の悪口をして歩きやがるんだい? 高々と。」
暗い生垣のところから、誰かが斯う言って、ぬうっと出て来た。其処は、平吾の家の杉垣と、平吾が鵞鳥を飼っている苗代とに挟まれてる場所であった。
「誰だね? おめえは誰だね?」
権四郎爺は蹌踉き去りながら言った。誰かがまた自分に突当って来たのだと思ったからである。
「誰も糞もあっかい! 糞爺め! なんだって叫んで歩きやがるんだ? 苗代の泥の中さ突倒《つきの》してくれるぞ。老耄爺め!」
「叫んで歩いだがらって、何も咎立したり、悪口したりしねえでもよかんべがね。法律は、言論の自由を許してるのでごおすからね。」
「ふむ。言論の自由ば、自分だけ許されてると思ってやがる。耄碌しやがって。貴様が、他人の悪口を言って歩いて、言論は自由だって云うんなら、俺だって自由だべ。糞垂爺め!」
「ほれにしたところでさ。別におめえの悪口をして歩いたってわけじゃあるめえしさ、年寄が酒に酔っ払って管を捲いて歩くのぐれい、大目に見でけろよ。なあ、俺が大声を立てて歩いたのが気に喰わねえって云うのだら、俺は一升買うどしべえで。」
「面白いごとを云う爺だな。今まで、平吾の馬鹿野郎、平吾の犬野郎って、俺さ悪口してやがって、それでも俺さ悪口をしねえって云うのなら、平吾って野郎をもう一人引張って来う! 俺の他に、平吾って野郎は一体この辺にいるがい? 考えで見ろ! 糞爺め!」
「おめえが本当の平吾がね? どうれで、先っきのは、なんだか新平に似た平吾だと思ったっけ。それは悪いごとをした。新平の野郎が、俺さ
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