》が上るまで待って項くわけに行きしめえか?」
 斯う言って捨吉爺は、地主の森山に泣付くより仕方が無かった。新平の家でも、松代の家でも、それから平吾の家でも、同じような結果だった。
「小作米は兎に角、作の悪かった原因がわかんねえようじゃどうも困るね。第一あんな竹の樋で水を運んでちゃ、駄目でがあせんか?」
「それゃ、且那様、俺等もそれ位のごとは知ってるのでごわすが、俺等にゃ竹の樋より上の分にゃ、手が出ねえもんでごわすから。」
「無論それは此方で拵えますがね。他人《ひと》から笑われねえだけのごとあしますべ。――やって置くだけのことやって置かねえど、小作米を貰うわげに行きせんでがすからね。」
 森山はそう言って笑った。併し、それは、彼の心臓から吐出された言葉だった。
「来年はまあ、箱樋でも拵えで見るがね? そんでいげねえようだったら、改めて鉄管なりなんなり引くとして。」
「箱樋を引いて頂けゃ、水はそれで十分以上でごわすもの、そしたら、肥料《こやし》もどっさり入れて、田の草取りなんかわらわらと、俺等は鬼のように稼いで、来年こそは、立派な稲にしてお目にかけしてごわす。」
 捨吉爺は、水に難儀をした今年の夏のことなどを思い出しながら、斯う言って、両方の眼をちかちかと潤ませた。
         *
 翌年の春になると、白い木製の箱樋が、赭土の窪地を乗越えて黒い浮島に渡された。水は用水堀から溝の中へと、どんどん流れ込んで行った。黒い地帯の小作人達は、急に気が弛んで溜息を吐いた。森山もそれで安心した。
「此方でだって、奴等に負けていねえさ。奴等のように資本をかけてやるつもりなら、どんなどこさだって、立派な田圃拵えで見せる。」
 併し、幾ら水を引いて来ても、秋になっての結果は思わしくなかった。冷たい水は稲の根を洗ってどんどん逃げて行った。のみならず、水は土地から肥料を盗んで行った。そして黒煙が流れ続き松埃が降り続いたからだった。粘質壌土ではあり、土鼠《もぐら》穴は十分に塞いだつもりだったので、これ以上は手の下しようが無かった。最早、四囲を掘荒されたためからの影響として、地盤が落着き、肥料が土地に馴染むまで、凝《じ》っと待つより他に途が無かった。
「仕方がねえさ! どうも。小作米はいいから、まあ、当分これで続けて見せえ。」
 斯う森山から言われて、其処の小作人達は、泣寝入の気持で細い収穫を続けて行った。今によくなるに相違ない! 今によくなるに相違ない! と思い続けながら。
         *
 所が、思いがけなかった大きな負担が、突然彼等を驚かした。水害で、用水堰は、その堤防までも流されて了ったからだ。
 以前には、用水堰が壊れると、煉瓦場附近一帯の田圃を所有している幾人かの地主がその費用を負担し、その小作人達が労力を供給することになっていたのだった。が、今ではその用水堰を必要とする土地と言えば、あの黒い浮島だけだった。当然、森山が一人でその材料費を出費して、僅か三四軒の小作人が、その労力を供給しなければならないのだった。
「旦那!あそこは、もうどうしたって、田圃にしていちゃ合わねえようでがすね。畠にでもして了っちゃどうでがすべ?」
 新平は斯う言ってひどく力を落していた。
 氾濫の激しい荒雄川の急流にコンクリートの堰を突出してまで水を持って来るほどのことだろうか? 森山はそんな風に考えざるを得なくなって来た。無論それは、明日の太陽をあの地帯にのみ望んでいた森山にしてみれば、全財産を傾けても水田として持続して行き度いのであった。
「――で、あそこを畠にして了っても、あんたがたは、やって行げるかね?」
「併し、無理して堰を拵えで見ても……」
「今になって畠にする位なら、あそこを売って、何処かいいどこの畠を買いばよかったのだども。」
 森山はそう言ったきり黙って了った。森山は泣いているのだった。

       四

 雪はまだ降り続いていた。最早五六寸も積っているのだった。戸を開けると、粉雪は唐箕《とうみ》の口から吹飛ばされる稲埃のように、併しゆるやかに、灯縞《ひじま》の中を斜めに土間へ降り込んだ。
「何時まで降る気なんだかな? この雪は!」
 捨吉はそう言って雪の中へ飛出して行った。そして水を汲んで来て、直ぐに竈の下を焚付けた。娘のお房が立って行くので餅を搗こうと云うのだった。誰もその晩は碌に眠れなかった。皆んな一番鶏で起きた。子供達もそれを嗅ぎつけて、どんなに起すまいとしても、寝ては居なかった。
「お母《が》あ! 銭《ぜんこ》けろ。銭けろってばな。姉さ餞別しんのだからや。お母あ!」
 六つになる弟の亀吉が、何処からか餞別と言う言葉を覚えて来て、斯う強請《ねだ》り出した。
「おっ! 亀は、姉さ餞別やって、お土産を貰うべと思って。亀! 俺の銭けんべ
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