気だった。併し菊枝だけは、終日黙々としていた。
「菊枝つあん。明日、行ぎしべ?」と川向こうから声をかけた友達にも、彼女は、微笑みを口元に浮かべて首を振って見せただけであった。
夜になって、片岡の家に日傭《ひでま》を取りに来た十幾人かは、夕飯の時から乾燥《はしゃぎ》きっていた。今夜は勘定だ。明日は祭りだ。明後日は草臥《くたび》れ休みだ。その意識はみんなの心を浮き立たせていた。そうして巫山戯《ふざけ》させた。併し、菊枝と春吉とは父娘《おやこ》揃ってふさぎ込んでいた。他人が冗談を言っても、春吉と菊枝とは、微かな笑いしか笑わなかった。菊枝は常に落ち着いた娘ではあったが、今日は、落ち着き以上のものだった。
「菊! 父《とっ》つあん、これがら町さ行って、髭剃《ひげそ》って来っかんな。」
帰りの途を、途中まで来ると、春吉はこう言って町の方へ行った。菊枝はそれにも、仄暗《ほのぐら》い中で、眼で挨拶したきりだった。併し、それから先の夜路を、豊作と二人だけの語らいを語ることの出来るのは、彼女にとっては、嬉しいことであった。
「ほんじゃ、明日の二時の汽車にしんべかな?」と豊作は、前々からの約束を、そして今朝の取《と》り定《き》めを、再びそこに持ち出した。
「ほだね。ほうしっと、東京さは、何時《いつ》着ぐの?」
菊枝の心の動きは、今は判然と決定されていた。誓《ちか》ったとは言え、今朝の約束までには、自分の心のどこかに、自分ながら、疑わしい分子が折々頭を擡《もた》げていた。併し今は、なんの疑いもない決意に満たされていた。彼女は心に一種の衝動を感じた。全身が微かに顫《ふる》えた。
「ほんじゃ、二時半までにゃ、停車場さ来んのだぞ。俺、先に行って、切符買って置っから…… ここの停車場でなぐ中新田《なかにいだ》停車場さ。」
「着物なんかはあ、なじょしんべね?」
「着物なんか、東京さ行ったら、俺、いい流行の着物買ってけるから……」
いつか二人の手は、仄暗《ほのやみ》の中に握り合わされていた。
六
六社様の祭日の九時頃、菊枝は、朝仕事が済むと次の間で、母の嫁入りの時のだった古|箪笥《たんす》から、二三枚の木綿の着物を取り出して、それに顔を押し当て泣いていた。母の位牌《いはい》の前には、線香が悠長に燻《くすぶ》っていた。
そこへ、婆さんが、二つの新聞紙包みを持って、痛む足を曳《ひ》きずるようにしてはいって来た。
「なんだけな? 菊枝! 泣いだりなんかして……父《とっ》つあんがこりゃ……」
菊枝は、着物の上に突っ伏したまま顔を上げなかった。
「なあ、菊枝。さあ、泣いだりなんかしねえでや。」
菊枝の胸の中には、不満な気持ちが満ち満ちていた。彼女は、その幾分かを祖母の前に吐き出そうとして顔を上げた。眼が赤く腫《は》れあがっていた。
「こりゃ菊枝。父つあんが昨晩《ゆんべ》買って来たのだぞ。ほら、水色の蝙蝠《こうもり》。ほれから、この単衣《ひとえ》も……両方で十三円だぢぞ。」
婆さんは柔和《にゅうわ》な微笑を浮かべて、こう述べたてながら二つの包みをほどいた。素樸《じみ》なメリンスの単衣であった。濃い水色に、白い二つの蝶を刺繍《ししゅう》したパラソルだった。
「ああ、いいこと!」
菊枝は思わず言って、そのパラソルを自分の手に取った。
「この水色の蝙蝠、高《たげ》えもんだぢな。なんだが、父つあん、借金して来た風だぞ。爺《じん》つあんさ見せっと、まだは、喧《やかま》しくて仕様ねえがら、見せんなよ。父つあんは、昨晩は、縁《えん》の下さ隠して置いで、今、魚《さかな》とりに行くどて、爺つあんと一緒に出はって行ってから、まだ馳せ戻って来て、菊枝さやってけれろって……」
菊枝の頬には、また、別の涙がまろび出た。
「大切にしんだぞ。この着物だって仲々いいもんだようだから……」
「うむ。俺、今日さしたら、後は、ちゃんと蔵《しま》って置ぐも。」
菊枝は涙に潤《うる》んでいるような声で言った。
「一生懸命稼いでな。自分で稼ぎ出して買った積もりで。――あ、早ぐ支度して出掛けろ。」
菊枝はすぐに立ちあがった。彼女は、涙が流れて仕方がなかった。
七
あくる日は、昨日の祭りの草臥《くたび》れ休みというので、村では仕事を休むのが習慣だった。
春吉と菊枝とは、朝のうちに一日分の草を刈って、爺さんも休ませ婆さんも休ませ、皆んなゆっくりしようと、草を刈りに出掛けて行った。
仲々いい場所が無かった。どこも皆んな、掃いたように刈られた跡か、短い五六寸ぐらいの草のところばかりだった。二人は、川べりや路傍《みちばた》を歩きまわった。そうして歩きまわっているうちに、町へ通ずる真山《まやま》街道で、二人は町の方からやって来る豊作の父親に遭った。
「どこさ行って来ました?」
春吉は立ち止まって煙草に火をつけた。菊枝は横から黙ってお辞儀をした。
「俺どこの、豊作の野郎め、東京さ逃げだべって話でね。そんで、停車場さ行って見だのしゃ。もし昨日、上野まで切符買った奴あるが無《ね》えが……」と言って、彼も煙管を横にくわえた。
「はあ! 豊あんこ、いねえのがね?」
「昨日出たきり帰《けえ》らねえので……停車場で訊《き》いたら、上野までの切符、七、八枚も売れだのだぢがら、見当が付かねえもね。」
彼は、ちょっと唇を噛むようにして眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》ったが、ぺっと道路に唾《つば》をした。菊枝は顔を赤らめて、下水を越え、田圃の畦《あぜ》を川べりの方へやって行った。
[#地から8字上げ]――大正十五年(一九二六年)『文藝戦線』
[#地から2字上げ]十一月号所収『逃走』[#「『逃走』」は底本では「「逃走』」]改題――
底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
1984(昭和59)年4月14日初版
入力:大野晋
校正:しず
1999年10月18日公開
2005年12月19日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
佐左木 俊郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング