駈落
佐左木俊郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)胡粉《こふん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一人|前《めえ》以上だぞ

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。
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     一

 朝日は既に東の山を離れ、胡粉《こふん》の色に木立を掃いた靄《もや》も、次第に淡く、小川の上を掠《かす》めたものなどは、もう疾《と》くに消えかけていた。
 菊枝は、廐《うまや》に投げ込む雑草を、いつもの倍も背負って帰って来た。重かった。荷縄《になわ》は、肩に焼《や》け爛《ただ》れるような痛さで喰い込んだ。腰はひりひりと痛かった。脛《すね》は鍼《はり》でも刺されるようであったし、こむら[#「こむら」に傍点]は筋金でもはいっているようだった。顔は真赤《まっか》に充血して、額《ひたい》や鼻や頬や、襟首からは、汗がぽたぽたと滴《したた》り落ちた。
「ああ、重かったちゃ。俺あ!」
 こう言って菊枝は、その雑草と一緒に、馬小屋の前に仰向きに身体《からだ》を投げ出した。ほつれ下がった髪が、ぺったり顔にくっついていた。
「ああ、暑々《あつあつ》。」
 菊枝は身体を投げ出したまま、背負っている草の上に、ぐったりとなって、荷縄《になわ》も解かずに、向こう鉢巻きにしていた手拭いを取って顔や襟首の汗を拭った。
 婆さんが、裏の畑から、味噌汁の中に入れる茄子《なす》をもいで、馬小屋の前に出て来た。春からの僂麻質斯《リュウマチス》で、左には松葉杖をついていた。
「おう、おう、重かったべさ。二人めえもあっちゃ。」
 蒼《あお》白い皺《しわ》だらけの顔に、婆さんは、鷹揚《おうよう》な微笑を浮かべて、よろこびの表情を示した。
「俺《おれ》あ、ほんとに腰骨折れっかと思った。眼《まなぐ》さ、汗は入《へ》えっし……」
「うむ重かったさ。――それにしても、よくこんなに刈れだで。」
「なあに、あの……」と菊枝は、語尾を濁した。
 実際、菊枝は、こんなに多くの草を刈って帰って来たことは無かった。いつも彼女の刈って来る量は、一回投げ込むだけのものであった。だから、午《ひる》に投げ込むのと、夕方のとは、彼女の爺さんが、一日がかりで刈ることになっていた。併し、今朝は、彼女は不思議にも、いつもの二倍も刈って帰って来た。
「これなら婆《ばば》さん、今朝は、半分やっていがんべ?」と彼女は、濁しかけた言葉を巧みに言い更《か》えた。
「いいども、爺《じん》つあんはあ、なんぼか悦ぶべ。」
「ああ、暑かった。」
 菊枝は、もう一度こう言って、まだ赤くなっているその顔を、手で拭きながら、婆さんと一緒に馬小屋の前をはなれた。
「冷《つめ》てえ、井戸水で面《つら》洗って。もうお飯《まんま》はあ出来でっし、おつけも、この茄子せえ入れればいいのだから、早く食ってはあ。――片岡さ行ぐのに遅ぐなんべ。」
 婆さんはそう言い捨てて、茄子を洗いに井戸端へ行った。

     二

 爺さんは、むっつりと、苦虫を噛みつぶしたような面構えで、炉傍《ろばた》に煙草を燻《ふ》かしていた。弟の庄吾は、婆さんの手伝いで、尻端折《しりはしょ》りになって雑巾《ぞうきん》掛《が》けだった。
「爺つあん、今日は、午《ひる》めえは草刈っさ行かねってもいいぞ。」と菊枝は、土間を掃こうと箒を取りながら言った。
「俺あ今朝、午《ひる》の分まで刈って来たから……」
「あ、そうが! そいつは大助がりだ。」
 爺さんは、初めて無愛想な面構えをほどいた。菊枝も大変嬉しかった。
 この爺さんは、昔は非常な働き手だった。二人前出来ないことは、たった一つ、使い歩きだけで、いっぺんに、西へ行ったり、東へ行ったりすることが出来ないから……と言われたほどの働き手だった。事実どんな仕事でも、大抵は二人前近く働いたものだった。が爺さんは、老衰の峠を越してから、急に怠《なま》け者の中へ数えられるようになった。
 それでも爺さんは、倅《せがれ》の春吉と、孫の菊枝とが、毎日のように日傭《ひでま》稼ぎに行くので、僂麻質斯《リュウマチス》の婆さんに攻め立てられ、老衰した身体《からだ》を、まるで曳きずるようにして、一日に二回ずつは、草を刈りに出なければならなかった。
「ふんとに俺は、棺桶《がんばこ》さ入《へ》えるまで、こうして稼がねえばなんねえんだな……」
 こう言って爺さんは、毎日草を刈りに出なければならなかった。あんなに働いた爺さんだったけれども、いくら若い時働いたことを、今の若い人達に自慢して見たところで、爺さんは、金鵄《きんし》勲章《くんしょう》も、恩給証書ももらってい
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