に、一緒に遊んでいたときのことを思うと、おれ紀久ちゃんを酷い目に遭わせるようなことは決して言えねえ。安心していろ」
正勝はそう言って、静かに微笑んだ。紀久子は身体の箍《たが》が全部緩んだような気がしながら、目が熱くなってきてなにも言うことができなかった。正勝は微笑みながら繰り返した。
「本当になにも心配しなくていい」
「どこかへ行って困ったら、いつでもわたしがお金を送ってあげるわ」
「金なんかいらないよ」
正勝はそう言って、その長い綱を身体に巻きつけたまま、静かにそこを歩き出した。
「正勝ちゃん! どこへ行くの?」
紀久子は怪訝そうに訊いた。
「心配しなくてもいい」
正勝は振り向きもしないで歩いていった。
「そんなものを巻きつけて。でも、どこへ行くつもりなの?」
正勝はもう返事もしなかった。彼はズボンのポケットに両手を突っ込んで、厩舎の横から放牧場の雑草の中へと、静かに歩み消えていった。
2
闊葉樹《かつようじゅ》の原生林は紅《あか》や黄の葉に陽が射して、炎のように輝いていた。
正勝は陽にきらきらと輝きながら散る紅や黄の落ち葉を浴びながら、綱を身体に巻きつけたまま熊笹藪《くまざさやぶ》の中を歩いた。彼のその足音に驚いて、この地方特有の山鳥が枝から枝へと、銀光の羽搏《はばた》きを打ちながら群れをなして飛んだ。白い山兎《やまうさぎ》が窪地《くぼち》へ向けて毬《まり》のように転がっていったりした。
しばらくしてから、正勝は道のほうへ出た。しかし、昨日の跡はことごとく落ち葉に埋め尽くされて、ただぎらぎらと火の海のように陽の光に燃え輝いているだけで、猫の額ほどの地面も残ってはいなかった。
しかし、そこには一つの目標があった。横筋の地肌の暗灰色の幹に、真っ赤な蔦《つた》が一面に絡みついているのであった。そして、はるかの谷底には暗緑色の椴松《とどまつ》林帯が広がり、その梢《こずえ》の枯枝が白骨のように雨ざれているのだった。
正勝は崖際《がけぎわ》の一本の幹に自分の身体に巻きつけてある綱の端を結びつけ、紅や黄の落ち葉に埋もれながら谷底へと下りていった。綱に掴まり、岩角や灌木《かんぼく》に足をかけて、周囲に求むるものを探りながら谷底へ谷底へと下りていった。
しかし、そこの地形は崖の上の道からの想像とは、ほとんど違っているのだった。道から見たのでは、その崖は道端からすぐ谷底までほとんど一直線的にぐっと岩壁になっているように見えるのだが、崖際から六、七間も下へおりると、そこにはLの字形の岩が突き出ていて雑草が茂り、灌木が伸び、落ち葉に埋もれているのだった。正勝は思いがけぬ足溜《あしだま》りを得た。思いがけぬ世界を発見した。そして同時に、容易にそこで蔦代の死体を発見したのだった。彼はかえって呆気《あっけ》に取られた。
正勝はその死体を前にしてしばらく立ち尽くした。それから彼は、落ち葉に埋められかけているその死体に手をかけて、前の姿勢から半分ほども起き返らしてみた。死体には別に、岩角での擦過傷というようなものはなかった。胸から脇腹《わきばら》にかけて、出血のために着物がべとべとになっているだけであった。彼はさらに、腕や脚を精細に調べてみた。やはり、腕や脚にも擦過傷はなかった。正勝がその路上から投げ込んだままどこの岩角にも突き当たらずに、直接そのLの字形の岩の上の雑草の上に落ちたのに相違なかった。
それから正勝は、その死体の胴へ自分の身体に巻きつけてある綱の一端を結びつけておいて、下りてきたときの綱に掴まって岸壁を登っていった。そして、崖の上に登り着くと、道の前後を注意深く見た。しかし、普段からあまり人通りのないその道には、夕陽にぎらぎらと輝きながら、紅や黄の葉がばらばらと落ち葉の海の上に散っているだけであった。
正勝は綱を手繰った。彼の掌《てのひら》の皮が剥《む》けてしまうほどの重さをもって渋りながら、蔦代の死体は崖の上に揚がってきた。正勝はすると、その死体を素早く引っ担いで闊葉樹の原生林の奥深く駆け込んでいった。
そして、彼はそこの熊笹藪の中に蔦代の死体を隠し、夜の迫るのをじっと待った。
3
紀久子は容易に眠れなかった。
彼女の耳の底には、正勝の、安心していろ! という言葉が耳鳴りのように付き纏《まと》っていた。そして目を閉じると、身体にぐるぐると綱を巻きつけている正勝の姿がその目の前にはっきりと見えるのだった。彼女は目が冴《さ》えて、どうしても眠ることができなかった。彼女の神経は銀針のように鋭敏になって、絹糸のように戦《おのの》いているのだった。
いくつかの部屋を隔てて、遠くのほうから柱時計の一時を打つ音がした。
紀久子は無意識のうちに、ベッドの上に半身を起こした。彼女の心臓
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