泣いていた。
「いったい、どこへ行く気なんだい? え? 蔦代!」
 それにも、蔦代はもちろん答えはしなかった。
 沈黙がふたたび馬車の上を襲った。馬車はごとごとと走った。鞭がときどきぴゅっと鳴った。

       4

 馭者台の正勝は鞭を振り上げては馬を追うだけで、ただのひと言も口を利こうとはしなかった。彼は単なる馭者としての役目を果たしているだけだった。そこに妹の蔦代がいて、その身の上についての詮議《せんぎ》が進められているのに、彼はそれに対しても耳さえ傾けてはいないような様子だった。少なくとも、正勝は馬車の上の三人の席と馭者台とを、全然別の世界にしているようだった。
 しかし、正勝は馬車の上の詰問に対して、なんらの関心をも持っていないのではなかった。妹の蔦代の啜り泣きに正勝の心は涙を流していた。紀久子の親切めく言葉を軽蔑《けいべつ》し踏みにじっていた。繰り返しての詰問に対しては抗議を叩きつけていた。
(蔦代がどこへ行こうと勝手じゃないか?)
 正勝は心のうちに叫んだ。
(他人の意志までも自由にすることができるもんか。蔦代には蔦代の意志があり、おれにはおれの生命《いのち》を懸けての意志があるのだ。あいつらのわがままが、おれたちの生命を懸けての意志までも押し曲げることができるものか)
 だいいち正勝にとって、帰り道での計画を果たすのにたとえ妹にもしろ、他人にいられては具合が悪かった。
(蔦代が森谷の家を出ていこうというのなら、おれの力で蔦代を逃がしてやろう。なにも、あいつらの思いどおりになっていなければならないということはないのだから)
 正勝は黙々として、妹の蔦代をいかにして逃がしてやるかについて考えつづけた。

       5

 馬車は間もなく市街地に入った。柾葺屋根《まさぶきやね》の家が虫食い歯のように空地を置いて、六間(約一〇・八メートル)道路の両側に十二、三軒ほど続くと、すぐにもう停車場だった。馬車は駅前の椴松のところで停まった。
 汽車はもう時間が迫っていた。
「正勝! 蔦やに逃げられちゃ駄目よ。わたしが戻ってくるまでちゃんと看視していてね。すぐだから」
 紀久子はそう言いながら、ひらりと馬車を降りた。そして、彼女は敬二郎を促し立てるようにして停車場の中へ入っていった。
「ちぇっ!」
 正勝はそっぽを向いた。紀久子と敬二郎との後姿をじっと見詰めていた目を逸らして。
 蔦代は兄の吐き出すようなその声に驚いて、顔を上げた。その頬《ほお》には蛞蝓《なめくじ》の這《は》い跡のように、涙の跡が鈍く光っていた。
「蔦! おまえは馬鹿《ばか》だなあ。馬車へなんか乗らなけりゃよかったじゃねえか」
「だって……」
「畑の中へでも、構わずどんどんと逃げていってしめえばよかったじゃねえか」
「そしたら、お嬢さまは兄さんに、捕まえておいで! っておっしゃるわ」
「馬鹿! おまえはおれのことを心配しているのか? おれのような馬鹿な兄貴のことなんか心配したって始まらねえぞ。おれのことなんか心配しねえで、おまえの思ったとおりなんでもどんどんやりゃあいいんだ。東京へ行きたいのなら、東京へでもどこへでもおまえの行きたいところへ行くさ。早く、さあ、いまのうちに逃げてしまえ」
 正勝はそう促すように言って、馭者台の上から周囲を見回した。
「でも、お嬢さまがわたしのことをあんなに思っていてくださるのだから、わたしもうどこへも行かないわ」
「おまえは馬鹿だなあ。おまえはあの女の言うことを信じているのか? 馬鹿だなあ。いったいあの女が、いつおまえを妹のようにしてくれたことがあるんだ? 考えてみなあ。おまえだってもう十八じゃないか? おまえをいつまでも子供にしておこうと思って、そんな子供のような身装《みなり》をさせているんだろうが。奴隷じゃあるまいし、十八にもなってあいつらが勝手な真似《まね》をするのをその前に立って……馬鹿なっ! そんな馬鹿なことってあるもんか。おまえの好きな人が東京にいるんなら、構わねえから東京へ行ってしまえ。おれもあとから行くし、早く、さあ、いまのうちに逃げてしまえ」
「だって、いま逃げたら、また兄さんが怒られるわ。逃げるにしても一度帰って、それからにするわ」
「おれのことなんか心配するなったら!」
「だって……」
「それじゃ、帰り道にあの原始林にかかったら、隙《すき》を見て馬車から飛び降りるといいや。そして引っ返せば、ちょうどこの次の汽車に間に合うから」
「いいかしら?」
「構うもんか。おまえが馬車から飛び降りてしまったら、おれは馬車をどんどん急がせるから」
「でも、お嬢さまが兄さんに、捕まえておいで! っておっしゃらないかしら?」
「言ったって、だれがおまえを捕まえてきて苦しめるようなことをするもんか。おまえはおれのなんだ? 
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