近していった。
紀久子はベッドの上に上半身を起こして、顫え戦きながら眉《まゆ》を寄せていたが、正勝が蔦代の右手を振り上げて近寄るにつれ、静かに静かにベッドから滑り下りた。
「紀久ちゃん! そのままでいてくれ。蔦が短刀で斬りつけたようにするから、そこへ寄っていくまでは動かねえでいてくれ」
そして、正勝は接近していった。紀久子は眉を寄せながらも、そのままじっとしていた。紀久子のベッドへもはや三尺(約一メートル)ばかりのところで、正勝は蔦代の手の中の短刀をひと振り強く紀久子に向けて振りかざした。
「あっ!」
紀久子は低声で叫んでベッドの上からぱっと床の上に飛び下りたが、その瞬間に、短刀から飛んだ血糊は紀久子の寝巻の肩へ、牡丹《ぼたん》の花の模様のように広がった。そして、蔦代の手の余勢はベッドの夜具の上にばたりと落ちた。同時に、血糊は夜具の上にも赤黒い模様を描いた。
「紀久ちゃん! 今度は逃げてくれ!」
正勝は蔦代の手を取って振り上げさせながら、紀久子を促した。
「この部屋をひと回り逃げ回って、それから次の部屋へ逃げ込んでくれ」
正勝はそして、蔦代の死骸をその後ろから抱き、蔦代の足が床の上に印す血の足跡を踏まないように注意深く大股《おおまた》に脚を開いて、不恰好な足構えで紀久子を追い回した。
「紀久ちゃん! それくらいでもう次の部屋へ行ってくれ。そして、ついでにそこの血を少し踏んでいってくれ」
正勝はそう言って、なおも不恰好な足構えで蔦代の死骸を抱えながら、紀久子を追い回した。紀久子は言われるままに、血糊を踏みつけて鮮やかな足跡を印しながら、次の部屋の戸口のほうへ逃げていった。
「そして、次の部屋へ行ったら、鉄砲のかかっている下へ逃げていってくれ」
次の部屋の戸口にまで追い詰めておいて、正勝は立ち止まりながら言った。
「そして、鉄砲の下へ行ったらいちばん下の鉄砲を取って、それで向き直ってくれ」
正勝は、すぐにも倒れようとする蔦代の死体を必死になって抱き支えながら言った。紀久子はドアを押し開いて、次の部屋へ走り込んでいった。
「鉄砲だ! 鉄砲を取って!」
正勝は紀久子に続いて入りながら、低声に言った。
「いちばん下の?」
紀久子は初めて、そう顫える声で言いながら、猟銃を取った。
「それを蔦の胸の傷口に当てて……待てよ。その前に、大事なことを忘れている。待っ
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