》や? お入り」
婆やは腰を屈《かが》めながら入ってきた。その手には、白樺《しらかば》の皮を握っていた。二人の目は驚異の表情を湛《たた》えて、その自樺の皮の上に走った。
「正勝さんからって……」
婆やは気兼ねらしく低声《こごえ》に言って、紀久子の顔色を覗《のぞ》いた。紀久子は真っ青になってわなわなと顫えていた。彼女は顫えながら、泣きだしそうな顔をして静かに手を出した。
「正勝はまた、吾助茶屋に行っているのでしょう」
「いったいまた、何を言ってきたんだ?」
敬二郎は怒鳴るように言って、横から白樺の皮をひったくった。
「また? なんという失敬な奴だ! 行く必要があるものか」
敬二郎は胸を激しく波打たせながら、怒鳴った。
「困ってしまうわ。婆や? いますぐ行くからと言って、帰らしておくれ」
「まいりますか?」
婆やはそう念を押して、怪訝《けげん》そうな顔をしながら出ていった。
「紀久ちゃんはそれじゃ、行くんだね?」
敬二郎は顔を引き歪《ゆが》めながら唇を噛んだ。
「でも、手紙には来いと書いてあるのでしょう?」
「――ただいま吾助茶屋にて盃《さかずき》を重ねおり候。しかし、あなたなしではまったくつまらなく存じ候。ともに飲み、ともに歌って踊りたく候間、さっそくにもお越しくだされたく候――」
「やっぱりね」
紀久子はそう言って、深い溜息を吐《つ》いた。
「行くことがあるものか!」
敬二郎は怒鳴るように言って、白樺の皮をストーブの中に投げ込んだ。しかし、紀久子は真っ青な顔をして、微《かす》かにわななきながら腰を上げた。敬二郎の目は驚異と哀愁との表情を含んで輝きだした。
「紀久ちゃんは行くつもりなのか?」
「…………」
「紀久ちゃん! 頼むから行かないでくれ。行かないでくれ」
「…………」
「紀久ちゃんが奴の言うことを聞かないからって、奴が何かしたらぼくがどうにでも始末をつける」
しかし、紀久子はじっと空間を見詰めて、夢遊病者のようにふらふらと静かに戸口のほうへ歩いていった。
「紀久ちゃん! お願いする。頼むから行かないでくれ」
「…………」
「紀久ちゃん! ぼくはもう、本当に生きてはいられない」
しかし、紀久子はもう魂の脱殻《ぬけがら》のように、黙ってふらふらと静かに歩いていった。敬二郎が抱き止めようとしても、無感情な機械人間のように静かにその手から脱《ぬ》け
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