うなず》かれないんだ。紀久ちゃんに限ってまさかそんな馬鹿《ばか》なことはないと思うけれど、しかし他人《ひと》の気持ちというものは、まったく分からないものだからなあ。それに、正勝の奴《やつ》が……」
 敬二郎は紀久子の馬のほうへ馬を寄せながら、声を低めて静かに言うのだった。その言葉はなにかしら、哀調というようなものをさえ含んでいた。紀久子はすると、狼狽《ろうばい》してその言葉を遮った。
「それは敬さんの思い過ごしよ。わたし、正勝のことなんかなんとも思ってないわ。それは敬さんの思い過ごしなのよ。わたしがまさか、正勝をそんな風に思うはずはないじゃないの」
「それはそうだが、でも、紀久ちゃんがぼくには葉書一本寄越さないのに、正勝の奴へだけ手紙を寄越したり電報を寄越したりしていたものだから、正勝の奴は有頂天になっているんだよ」
 敬二郎のその言葉の中には、どことなく怨情《えんじょう》をさえ含んできていた。
「それで、敬さんまでそんな風に思っているの?」
「別にそう思うわけではないが、ぼくにだって葉書の一枚ぐらいは寄越しても……」
「敬さん! わたしが正勝に手紙や電報を出したのは、そんなわけではないのよ。かりにそれが過失……正当防衛にもしろ、正勝のただ一人の妹を殺したのはこのわたしなんだから、わたし、正勝になんとなく済まない気がするわ。済まない気がして、正勝にはできるだけのことはしてやりたいと思うのよ。誤解されちゃ困るわ」
「別に誤解はしないがね。しかし、その済まないという気持ちはどうかすると、危険なものになりゃしないかと思うんだがね。すでにもう、正勝の奴は紀久ちゃんのその気持ちを履き違えているようだから」
「そんなことないと思うわ。そんな馬鹿なこと、決してないと思うわ。それだけは、わたしはっきりしておくわ。そして、お蔦に対する詫《わ》びの気持ちから正勝のほうへできるだけのことをしてやりたいわ」
 紀久子は胸を弾ませながら言った。
「それには、やはりぼくたちが早く結婚をしてしまわなくちゃいけないね」
「そうかしら? わたしはそうは思わないわ。結婚なんか来年でも再来年でも、いつでもいいと思うわ」
「紀久ちゃんはそう思っているのか?」
 敬二郎は驚きの目を瞠《みは》って言った。彼の胸は潮騒《しおざい》のように忙《せわ》しく乱れていた。彼は紀久子の顔から、いつまでも目を離すことができ
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