どこにも見えなかった。
「開墾場のほうへ行ったのかな?」
 敬二郎はそう考えて、四角なコンクリートの正門から道路のほうへ出ていった。ちょうどそこへ、正勝が急ぎ足に寄ってきた。しかし、正勝は敬二郎の姿を見ると急に立ち止まった。
「敬二郎くん! 何を昂奮《こうふん》しているんだえ?」
 正勝は目を瞠って言った。
「熊《くま》が出たんだよ。楡《にれ》の木の上の林から放牧場のほうへ、のそのそと出てくるのがはっきりと見えたんだ。一緒に行ってくれないかね」
 敬二郎は胸を弾ませながら言った。
「熊が? それじゃ、おれたちばかりでなく、大勢で行こう」
「ぼくときみだけで沢山だよ」
「それより、きみはおれの電報を預かってるはずだな? いまそこで配達夫がそう言っていたが……」
「熊が出たんで、電報のことなんか忘れてしまっていた」
 敬二郎は狼狽《ろうばい》しながら電報を取り出した。
「紀久ちゃんからだろう?」
 正勝はそう言って、すぐその電報を広げた。
「おっ! 無罪に決定! 無罪に決定! 無罪ということにいよいよ決定したんだ。無罪に決定! 無罪に決定! 無罪に……」
 正勝はそう叫びながら、電報をひらひらと振り、急に踊りだした。
「正勝くん! 何がそんなに嬉《うれ》しいんだえ?」
 敬二郎は侮蔑的な微笑をもって言った。
「当然のことじゃないか! 紀久ちゃんが無罪に決定して、三、四日うちには帰ってくるんだもの。ほっ! 無罪に決定! 無罪に決定!」
「正勝くん! きみは紀久ちゃんが無罪に決定したのが、そんなに嬉しいのか? 自分の妹を殺した女が無罪に決定したって、何が嬉しいのかぼくには分からないなあ」
「おれにとって嬉しいこたあ、いまとなってみればきみにとっちゃ悲しいことさ」
「何を言っているんだ! きみは妹をかわいそうだとは思わないのか? 自分の妹を殺した女がたとえ幾月にもしろ、刑務所に……」
「余計なお世話だよ。蔦と紀久ちゃんとを一緒にされるもんか。紀久ちゃんのためなら、蔦なんか百人殺されたっていいんだ。紀久ちゃんとおれとがどんな風にして育ってきたか、それを考えてみろ。それから、この牧場が出来上がるまでおれの親父《おやじ》がどんなに難儀したか、それを考えてみろ! おれの親父は言ってみれば、この牧場のために死んだんだぞ」
「そのことと、紀久ちゃんが無罪になったということと、どう関係があ
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