田の顔を視詰めていた眼を急に伏せて、紙幣の上に両手をかけて泣き出した。
八
彼女は先に床を出た。そして、茶を沸かしてから彼を起こした。五日目ごとに繰り返されて来た今までの生活と、少しも変わりが無かった。
吉田は茶を飲んで、いつもと同じようにして出て行った。
「じゃ、さようなら、身体《からだ》を大切にしてね。」
ただ、背広の姿がいつもと変わっているだけだった。
吉田を送り出して部屋の中へ戻ると、彼女は急に、限り無い寂しさの中へ突き落とされた。彼女は自分を、再び、家鴨のいる池の中へ移される金魚のように思った。例え短い期間ではあったにしても、一人の男に仕えて暮らして来たということは、彼女に取って、家鴨のいない池の中の生活であった。それが再び泥濘《ぬかるみ》の中に踏み込んで行かなければならないのだと思うと、彼女は急に悲しくなった。
同時に、吉田機関手がこれまでの自分にしてくれた全《すべ》てのことが、洪水のように彼女の胸を目蒐《めが》けて押し寄せて来た。殊にも昨夜のことであった。そのまま黙って別れてしまったにしても、それまでのことなのだ。それをわざわざ訪ねて来て、身体を大切にするようにといって金まで置いて行ってくれたのだ。そしていつものように泊まって行ったのだ。
彼女は泣けて仕方がなくなって来た。
彼女は、一番の列車を牽《ひ》いて帰って行く、吉田の、後ろ姿だけでも見送りたいと思った。彼女はふらふらと線路の方へ出て行った。
九
機関車が、非常汽笛を鳴らして靄《もや》の中に停車した。
「靄で、ちっとも見えやしねえんだもの。」
機関手が呟きながら降りて行った。助手の火夫が続いて飛び降りた。
「轢いたんじゃないか?」
車掌が駈けつけて来た。
「女だな。手に何か持っているじゃないか?」
腰から切断された胴体の手が、何か手紙のようなものを握っていた。それには「吉田機関手様」と書かれていた。
「吉田機関手って、馘首《くび》になった吉田のことかな?」
「だって、他にいないですね。」
そこへ四五人の乗客が客車から出て来た。四五人きり乗っていなかったのだ。その中に背広を着た吉田が混じっていた。
「青木! 轢いたな。」
吉田は歩み寄りながらいった。
「おう! 吉田君。君これに乗っていたんだね? これ、君に宛てたのらしいんだが……」
青木機関手はそういって、女の手に握られてあった手紙を吉田に渡した。手紙といっても、何も書いてあるわけではなかった。十円札が十枚封じられてあっただけだ。しかし吉田は、そこから読みきれないほど沢山のことを読むことが出来た。
「吉田君! 君の知っている人なのかね?」
「青木っ! てめえの裏切りが、僕等四人を馘首《くび》にしただけじゃねえってことを、よく見て置け。ここにこうして死んでいる女は、僕が首切り賃をわけてやった女だ。それから、僕のほかの三人は、独身じゃねえんだぞ。女房もあり子供もある人間だ。てめえの裏切りが、何人の人間を干乾《ひぼ》しにするか、よく考えて見ろ!」
吉田は、手紙を握った手をズボンのポケットに突っ込みながら客車の方へ戻って行った。彼の眼は、潤んで、ちかちかと光っていた。
機関車は、線路工夫を呼ぶために夜明けの靄の中に非常汽笛を鳴らし始めた。
[#地から2字上げ]――昭和五年(一九三〇年)五月『週刊朝日』――
底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
1984(昭和59)年4月14日初版
入力:大野晋
校正:しず
1999年9月24日公開
2005年12月19日修正
青空文庫作成ファイル:
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