たとえその後うまくいかなかったにしても、大局から見たら結局はプロレタリアが勝っているのじゃないかね」
「しかし、局部を見究めることも必要だと思うんです。……あなたの場合だったら、それをどう解決しますかね。養父がやられ、そのうえに職工たちの要求に……」
「きみ! ぼくをそんな人間と思うのかね? ぼくをそんな無理解な人間だと思うのかね? 職工たちが正義のためにとった手段に対して、ぼくがとやかく思う人間だと……」
「分かったです。それで分かりました」
布川は低声《こごえ》ながら、叫ぶようにして言った。
「……つまり、テロリズムを持ち出す場合は、その場の様子を見なければいけないわけですね。そして相手の様子によって……」
「それはそうだよ。闘いじゃないか? いまどきはそんなテロリズムを担いでいる闘士なんてないだろうからね? しかし、その場合によって、どうしてもテロリズムでいかなければならないことがあったら、それは仕方がないじゃないかね? たとえテロリストでない人間でも、その場の成行きで急にテロリストになることだってあるだろうし、ぼくならその工場の後継者としてそのテロリストの行為に好意を持つね。ぼくはそして、その犠牲になったテロリストの犠牲に対して、報いるだけのことをするね」
 その時、その部屋のドアをだれかがノックした。
「どなた?」
 賢三郎は顔を上げて言った。
「わたしよ、入ってもいいこと?」
 ドアが外から開いた。入ってきたのは賢三郎の婚約の令嬢、弥生子であった。

       4

 朝は深い靄のために鈍色《にびいろ》に曇っていた。
「晴れる晴れる。大丈夫晴れるよ」
 仮面の男が街頭の空を見上げて言った。
「花曇りさ」
「青空が見えてきたよ」
 同じ仮面の男が言った。
 前田鉄工場の仮装観桜会に行く、前田鉄工場の職工たちであった。
 集合場所は新宿《しんじゅく》の駅前になっていた。同じ仮面をつけた同じ仮装の人間が、その住宅から三人五人ずつ連れ立って集まってきた。最初はその声色や身体《からだ》の恰好《かっこう》で、仮装の中に包まれている人間がだれであるか判然と分かった。しかし、それがしだいに多く合流していくに従って、だれがだれであるか全然分からなくなっていった。
 新宿の集合場所には、工場主前田弥平氏が早朝から行っていた。彼は家族の者にも職工たちと同じ仮装をさせて引き連れてきていた。しかし、彼自身は背広の首に花見の手拭《てぬぐ》いを一本結んでいるだけで、仮装はしていなかった。したがって、そこへ集まってくる職工たちの目には、自分の同志のだれが来ているのかは分からないが、工場主前田弥平の来ていることだけはすぐ分かった。
 仮装の職工たちはそこへ集まってくると、まず工場主のところへ行ってお辞儀をした。前田弥平は鷹揚《おうよう》な微笑でそれを受けていた。職工たちはもしその同一の仮装をしていなかったら、こんな場合、彼の前に行ってお辞儀をするようなことはなかったかもしれない。しかし、同一の仮装のため、もはやだれがだれであるか全然分からなくなっているのだった。そのことが彼らをして、何の懸念もなく工場主に対してお辞儀をさせたのだった。
 前田弥平は豪胆な一面を持っている男だった。仮装の職工たちからそうしたお辞儀を受けるために、自分だけが仮装せずにいるのがすでに彼の豪胆を語っているといってもよかった。彼はそして、職工たちが個人として自分に対する場合、自分に対してどれだけの好意を持っているかを見ようとして、この同一仮装の人間を作り上げたのかもしれなかった。職工側のほうではまた、その仮装が全部同一のものであったために、今日の花見のことを受け入れたのかもしれなかった。いずれにしろ、前田弥平氏の計画の第一歩はとにかく成功したのだった。

       5

 観桜会の場所は、武蔵境《むさしさかい》の小金井《こがねい》であった。同じ青と白との縞《しま》の着物を着て、同じ仮面をつけた六、七十人の職工たちは、ただ一人背広を着ている工場主を取り巻くようにして長い土堤《どて》の上を雪崩《なだ》れていった。
 用水堀の両側の土堤からその中央の流れの上に、桜の花は淡紅色《ときいろ》の霞《かすみ》のように咲きつづけていた。搾《しぼ》りたての牛乳のように微《かす》かに温かで柔らかな空気の中に、桜の花はどこまでもおっとりと誇らかに咲いているのであった。
 花見の人たちはその下を潮騒《しおさい》のように練っていた。幾つも幾つも団体の仮装が通った。喚声が高らかに至るところから上がった。子供の泣き声がした。喧嘩《けんか》があった。急拵《きゅうごしら》えの茶店からは大声に客を呼んでいた。それは花と人間との接触ではなかった。人間と人間との接触! まるで、人間の洪水を見に来ているようなものだった。そして、桜の花のほうがかえってある一つの落ち着きをもって、じっとこの人間の騒々しい芝居を眺めていた。
 その雑踏の中でも、前田鉄工場の仮装団はとくに目立っていた。彼らはその仮装が同じばかりでなく、同じような昂奮《こうふん》で語り、同じ声で叫び、そしてときどき彼らは労働歌を合唱した。ある者は工場主を罵倒《ばとう》し、ある者は皮肉を投げつけた。しかし、工場主の前田弥平氏はその機構の中の一つの細胞のように愉快な笑いで語りながら、彼らと一緒に縋《もつ》れていた。それは嵐を孕んだ青白い雲だった。青白い雲のように、彼らの一団はその人間の洪水の中を通り過ぎていった。
 長い土堤を中ほどまで来たとき、青白い仮装団はそこの雑木林の中へ雪崩れ込んでいった。仮装観桜宴会はその雑木林の中で催されるのだった。青白い仮装団は雑木林の中いっぱいに広がった。持ってきた折詰の弁当が渡された。瓶詰の酒が配られた。
 前田弥平氏はそこで、一場の挨拶《あいさつ》をすることになった。寄生者の生活にはしばしばのこと、一場の挨拶が縺れついている。彼の挨拶もまた、それに過ぎないものではあったが、彼はその挨拶のカテゴリーにおいて自分の計画の第一歩を踏み出そうとしていることはもちろんであった。彼は仮面の群れに向かって声を張り上げた。
「――諸君! わたしは今日のこの仮装観桜会の主催者として、何よりもまず今日の晴天であったことを諸君とともに喜ぶ者であります」
「だれも喜んでなんかいねえや」
 だれかが後ろから怒鳴った。仮面の目がいっせいにその声のほうへ集中した。
「ふんとだあ! 降りゃあよかったんだ」
「……諸君! 空には花がいまや満開です。平和な空に花は共に楽しく微笑んでいます。そして地には、われわれ人間がこうしていま平和な喜びをもって宴会を開こうとしています。共に楽しみ、喜びをもって、平和を……」
「嘘吐《うそつ》きゃあがれ!」
 また一つの仮面が怒鳴った。
「証拠を見せてやれ! 証拠を!」
 その時だった。仮装の一つが闘鶏のように飛び出していった。次の瞬間に、その男は弥平氏が首にかけていた花見の手拭いに手をかけて、弥平氏をぐっと背後へ引き倒していた。そして、その男はその手拭いの端を握って弥平を曳《ひ》き摺《ず》り回した。弥平氏は声を立てることもできずに身を※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》いた。しかし、その男はその手拭いの端を放さなかった。彼は弥平氏の身体を曳き摺って駆け回った。
「乱暴はよせ! 乱暴はよせ!」
 しかし、そう言って五、六人の者がその男の手から弥平氏を放させたとき、それがどの手から放させたのか分からなくなっていた。そして、弥平氏はもう死んでいた。
「おい! 死んでいるじゃないか!」
「だれだ! いまのはいったいだれだ!」
 もちろん、分かるわけはなかった。同じ七十の顔から、それがだれであるか見分けることのできなかったのはもちろんだった。

       6

 前田鉄工場の職工たちは観桜会のその場から、ことごとく警察に挙げられた。そして、前田弥平氏絞殺のことについては夜を徹して厳重な取調べが続いた。しかし、だれもそれを自白する者はなかった。
「……では、だれじゃないかな? ぐらいの想像ならつくだろう」
 係の警察官はそう訊《き》くより仕方がなかった。
「それが、どうも。七十人近くの人間がみんな同じ着物、同じ顔をしていたものですから……」
「いったい、あの仮装はどっちが考えたのかね? 工場主のほうで考えたのか? それとも、きみたちのほうが考えたのかね?」
「あれは工場主のほうで考えて、必ずその仮装をして出るようにとのことでしたもんですから……」
「分からん! どうも分からん!」
 係の警察官はそう言って、頭を振るより仕方がなかった。
「工場主はいったい、なぜあんな仮装をきみたちにさせたのかね? 何か目的があったのだと思わないかね?」
「わたしたちには分かりませんです」
「どうも不思議だ」
「でも、工場主が職工たちとの間を親密なものとしようとして、花見をしたことだけは分かります」
「それはそうだろう。しかし、なぜあんな同じ仮装をさせる気になったか? どうも分からん」
 結局、そこに挙げてきた職工たちの中から犯人を捜し出すことはできなかった。職工たちと同時に、工場主と一緒だったその家族の人たちも一応は調べられた。もちろん、犯人はそこからも挙がらなかった。
 警察ではそして、その職工たちの中からもっとも過激的であると睨《にら》んでいた七、八人を残すよりほかに仕方がなかった。事件の端緒が間接的にも直接的にも、今度の争議に発しているからである。
 その七、八人の中から、わけても真犯人としての嫌疑をかけられているのは山本《やまもと》と河瀬《かわせ》とであった。山本は前田鉄工場へ来る前にある大さな鉄管工場に働いていて、その工場に争議があったときその工場を経営している会社の社長の自宅を訪問し、社長にピストルを突きつけ脅迫罪の前科を持っている男だったからである。そして、河瀬は前田鉄工場の今度の争議に際して幾度も工場主前田弥平氏をその自宅に訪問し、そのたびに脅迫的な言葉をもって弥平氏と激論していたからであった。
 しかし、この二人の嫌疑者にも、その証拠となるべき充分な何物もなかった。しばらくして彼らも放免された。
 そして、前田弥平氏殺害事件は忙しい社会から、新しい事件の下積みとなってしだいに忘れられていった。警察のほうでもまた真犯人検挙のために注いでいた全力を中止して、その方針を改めなければならなくなってきていた。

       7

 主人の弥平氏を失った前田家では、その鉄工場を他人の手に渡してしまおうという話が持ち上がった。個人でその工場を経営しているばかりに、しばしばのことその家人までがいやな思いをさせられるからである。そして、その工場を手放すことによってかれらの今後の生活は安全らしく、しかも平和らしい殻の中に閉じ籠《こも》ることができそうだったからである。娘の弥生子もまたそれには賛成だった。が、養子の賢三郎はそのことにはどうしても賛成しなかった。
 賢三郎には、前田鉄工場を模範工場にしたい野心があった。従来のいわゆる模範工場ではなかった。彼は彼の中の理想の世界の一部を、その工場に移したいのだった。それは困難な道に相違なかった。しかし、賢三郎の若い野心は新しい時代の社会の要求として、自分の目に映じたその世界をそこに実現してみずにはいられない希望に燃えるのだった。
 そして、賢三郎はこれまでの書斎の生活を離れ、若い工場主として実生活への第一歩を踏み出すことになった。
 ちょうどそのころ、これまで前田家の書生としてそこに寄食していた布川もまた、賢三郎と同じように実社会へと乗り出していくことになった。
「とにかく、ぼくは生命《いのち》を投げ出してやってみようと思うんです」
 布川はそう、賢三郎に向かって言うのだった。しかし、彼には別に自分としての特別な意見があるわけではなかった。彼のそれはただ、賢三郎の常からの言葉を実行に移そうとしているに過ぎないものだった。
「まあ、どこまでやれるか、やってみるんだね。
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