です? この顕然《あらたか》な御神前で……」
 祠守りの女が、祠の中から叫んだ。
「御神前も糞もあっかい。狐の小屋の前で小便をすりゃあ、どうだっていうんだ。犬を返せ。犬を返せ。でねけえ、何もかも敲き壊すぞ。」
 彼は祠の入り口まで立って来た湯沢医者の妻女に、吠え付くようにして言って、また祠の柱に身を打ち付けた。
「それは、あなたの思い違いというものですよ。あなたが、清次郎さんに負けないように、お祈りをすれば、いいことなんですからね。」
「俺は、人間様だからな。そんな、稲荷だなんて、狐に頭を下げて頼むのなんか、真《ま》っ平《ぴら》だ。俺には人間の力があるだで。」
 湯沢医師が、住まいの方から、盆の上に二本の徳利を載せて来た。そして平三を宥《なだ》めるようにして言うのだった。
「平三さん。悪いことは言わねえ。さあ、このお神酒《みき》をあげてお詫びをなせえ。酔っててのことだから、まだ取り返しは付く。さあ!」
「なんだと? お神酒だと? 酒なら俺が召し上がってやる。狐になんぞ、勿体《もってえ》ねえこった。」
 そこへ彼の伜が来て、曳《ひ》き摺《ず》るようにして彼を拉《つ》れ帰ったのだったが、彼はその晩、ひどく腹を病み、とうとうその明け方に死んだ。

     五 薬を売る神

「――医業は仁術なり、――と言うが、被告はそれをどう心得ているのだ?」
 裁判官は錆《さび》のある声で厳《おごそ》かに言った。そして、法の鏡に映る湯沢医師の言葉の真意を探《さぐ》ろうとの誠意を罩《こ》めて静かに眼を瞑《つむ》った。
「はい。その通りで御座います。少なくとも、医術を修めました以上は、そんな風に役立てたいものだと思っておりました。併し農村へ参って開業いたして見ますると、農村では、医師の力よりも、神の力の方を信じられておりますので、それを利用して病患者を救いたいと思ったので御座います。」
「併し、被告は、神の力を信ずるという迷信から遠ざけて、医術を信じさせようとするような行為に出たことは、一度として無いではないか? 第一予審調書によると、被告は七年前、宮本キクに、被告の妻の手から竹駒稲荷大明神の御供物《おくもつ》と称して、モルヒネを混入せる菓子を与えて、その発作的胃神経痛の疼痛《とうつう》を鎮めて以来、常に同一手段を用いて参詣客《さんけいきゃく》の病気を癒《なお》した二百七十三件の事実があり、被告杉沢清次郎が、藤原平三を憎んでの祈祷《きとう》を機縁《きえん》として、藤原平三の猟犬ジョンの頭を硫酸にて焼き、約二週間の後には、黄燐を塗った肉片を与えてその猟犬を死に到らしめるなど、一つとして、神を信ずるという迷信を遠ざけようとした手段とは思われない。」
「最早、医術の力を説いても無駄だと思ったからで御座いました。神の力だけを信じている農村の病患者を救うには、竹駒稲荷大明神の御供物《おくもつ》、お神酒《みき》と言って医薬を施すより他には途がないものと思ったからで御座います。」
「――そうではあるまい! 被告は一度として貧しい祈祷者に薬物を混入した供物《くもつ》を与えた事実が無いではないか。これは、賽銭《さいせん》寄進物《きしんぶつ》の多少によってその御利益《ごりやく》の程度を暗示して、利得を計ったものと思うが、どうか?」
「決してそうでは御座いません。自分の財産を投げ出しても、病人を救うのが医者の任務と心得まして、利得《りとく》を計ったことは御座いません。」
「然らば被告はいかなる考えで人命を断ったか? 竹駒稲荷の效験顕然《こうけんあらたか》なことを知らせようとしてのことか?」
「…………」
「竹駒稲荷の效験顕然なる事を知らせることは、間接にもしろ、被告自身の利得を計っているではないか? 第一予審調書に依れば、被告は相当な御礼寄進をなさざれば、直ちにお使いの白狐が飛び出して田畑を荒らし、その他再び病気を発するなど、顕然なる罰《ばち》を受けるものと称して、金銭、米穀、反物《たんもの》、田畑、山林などを寄進せしめ、これを私有し、贅沢なる暮らしをしていたではないか?」
「…………」
「即ち、被告は、神の名により、不当の価格にて医薬を売ろうとしたものであり、人命救助の目的を以って竹駒稲荷の祠《ほこら》を建立《こんりゅう》したものではない。藤原平三に、重クロム酸加里を混入せる酒を呑ましめたることも、自分の利得のための殺人として情状酌量の余地なし。」
[#地から2字上げ]――昭和四年(一九二九年)『文学時代』十月号――



底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
   1984(昭和59)年4月14日初版発行
初出:「文学時代」
   1929(昭和4)年10月号
入力:田中敬三
校正:小林繁雄
2007年7月23日作成
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