相川おけさ
村松おけさ、佐渡牛などのこと
江南文三
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《》:ルビ
(例)間《ま》
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越後が本家であると言はれるおけさ節の朝から晩まで聞ける相川は、毎年七月十三、十四、十五と三日續いての鑛山まつりに、全島のお祭好きを呼び集めます。此時には遙遙海を越えた新潟縣からも、或は祭見に、或は踊りに來る人があります。ほんとうの盆は舊暦ですからこれよりも後になりますが、これはほんのおしるしだけでして、相川の町ではこの鑛山祭を盆と呼んで居ります。
本來鑛山の祭は正月に寳莱祭と言ふのがあり、このときには式場で山で一番の聲の持主が「やはらぎ」、「金山節」、「金堀節」、或は「寳莱節」と言ふのを歌ふ例になつて居り、此外にほんとうの盆に、奉行所の前で、武家も町人も大人も子供も、それぞれ割合てられた[#「割合てられた」はママ]時刻に、輪を作つて「御前踊」と言ふのを「相川音頭」或は「御前音頭」と言ふ節に合せて踊つたと言ふ、この二つだけだつたさうです。
奉行所が御料局になつてからは、盆の踊だけが町中を流して踊るものとなり、歌は前に出した五十位の女の覺えてゐたのを聞いたと書いたあの二種のやうな節のおけさで、踊は今日殘つてゐるものとも違ふ型のものだつたのださうです。
それが更に、御料局から三菱の手に鑛山を拂下げるやうになつてから、今日の鑛山祭と言ふものが出來、ほんとうの盆が段段と消滅したのださうです。
で、この七月十三日と言ふ日は、鑛山が三菱の手に移され、宮内省から町へ手切金を下賜された記念日なのです。
此日には町の小學校は休みになり、中學も半休みになり、鑛山には東京の藝人などが來て、その他色色の催物があります。町の家には各戸にお客樣が泊り込んで居り、臨時の飮食店も出來、佐渡全島の[#「佐渡全島の」は底本では「佐度全島の」]藝妓が集まりますので臨時のおき家も出來ます。勿論歌ふ歌はおけさ、それが全島からのですから色色の節くせを持ち込んで來るのです。來る方では相川のを覺えて持つて歸らうと思つて來るのでせうけれども、さう言ふ祭にはとても純粹のものは持つて歸れません。うろ覺えの儘藝
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