人の名を訊かせようとしたが、早跡形もなくなつてゐた。その同じ夜寺田彌三郎と言ふ士が下戸――おりとと讀む、相川の南部、二つ岩から程遠くない處――の番處のそばで怪しいものを切つたと言ふのがあとで分かつて、思ひ合はして見ると療治に招ばれた先は二つ岩團三郎だつたかも知れないと書いてある。
私の聞いた話では、歸るとき先方で、實は自分は二つ岩團三郎であると打ち明けて、お禮として錢差に差した一さしの金を寄越して、これは極めて輕少だが、いくら費つても最後の一文だけを殘しておけば再びもと通りになるのだから、人に隱して子孫へ傳へるやうにと言ふ事だつたさうです。處が、子孫のなかに言ひ付けを守らない男が出てみんなつかつてしまつたので、もう決して殖えなくなつたが、其錢差だけは今も尚瀧浪家の神棚に下げてあると言ふ話です。瀧浪の子孫の家は私の家から一二町南にあります。二つ岩道へ出る處にありますが、昔大した醫者の居た家とは思はれない家構です。
團三郎の細君は相川から六七里ばかり北の佐渡の西岸の關と言ふ化石の澤山採れる村から一寸行つた處の寒戸〔さぶと〕と言ふ處に祭られてゐます。穴の中から暑中でも冷い風が吹き出してゐる處です。
石灰岩と石英とは色色の佐渡の不思議を作り出してゐます。
試みに相川の濱に出て、紫石英や水晶や瑪瑙や赤玉や青玉や、自然金のついた小石や斷層を鮮に見せた小石や火山彈などを拾ふついでに、濱邊一帶を白く見せてゐる燧石をも手に取つて御覽なさい。大抵の燧石には穴があいてゐましてその穴の中には無數の水晶か動物の齒のやうに上下左右から出てゐます。なるべく純粹に近い石灰岩で出來てゐる大岩の穴に這入つて岩を毀いて御覽なさい。折折京丸牡丹のやうに中のうろ一向に花片を出してゐる水色や褐色の鐘乳石を見られます。
小さな島でありながら蛇紋石の小島もあり、水石ばかりで出來た岬もあり、地表に石炭の露出して居る處もあり、瑪瑙の壁もあり、黒曜石もあり、砂岩もあり粘板岩もあり、猿の尻のやうな土の覗いてゐる處もあります。そして東京邊の新聞に出ないでしまふこともあり、出ても注意せられずに忘れ去られてしまふのでせうが、絶えず處處に土地の隆起や之に伴ふ陷沒が起つて居ります。
一體佐渡と言ふところは昔から狐のゐない處ださうでして、その代りに貉が住んで居るのです。もつとも動物は放牧してある牛以外には、どんな山奧へ行つてもあまり見當らない處です。熊も居ず、猿も居ず、鹿も居ず、僅に兎と雉と蝮と蛙と馬追とこほろぎと岩蟲と女の兒の頭と襟とに住む虱と、道路の捨石の下にまで住む蚤と、何處の家の食膳にも止まる蠅と、虻と、笹でうまつてゐる海岸の切岸に住む雀と、山の岩で數町さきの異性と鳴き交はす鳶と、濱に來て犬をからかふ烏と、魚賣の手に寄生する水蟲と、人の數に匹敵する猫とその猫の取りきることの出來ない鼠と、まづその位の動物しか人間以外にはゐない處です。
その中で貉は佐渡の名物ださうで、四國猿と同じやうに佐渡貉と言ふのは熟語になつてゐるのださうです。
佐渡の貉は本來此島の産ではなくて、金山の鑛石を鎔かす鞴のにその毛皮が是非必要なので、餘處から取つて來て島の山に放したものだと言ふ話です。
能登と岩石の分布が酷似してゐることや、昔謙信が能登で金を採つたことなどを考へ合はせて、能登半島が本州の一部であるにも拘らず狐が居ないで貉だけがゐるのも何か地質や植物との關係もあるのではないかなどとも考へさせられます。
土佐には狐が居ないために、狐憑がなくて犬憑と言ふのがあるやうに、此處でも狐憑はなくて貉憑があります。
貉の親玉團三郎は妖術に於いては日本一ださうです。昔日本一の妖術の大家が越後に住んでゐたさうです。名は聞き洩らしましたがとにかく狐だつたさうです。それと團三郎とある時術較べを爲ようと言ふことになつて、江戸へ出たさうです。どちらが先に術を使ふかと言ふ事を籤できめることにしましたら、團三郎の方が先へやることになつたさうです。團三郎は、それでは俺は明日の朝これこれの刻限に大名となつて素破しい行列を作つて登城するから見に來てくれと申しました。佐渡狐が翌朝町人に化けてお濠畔へ行つて待つてゐると梅鉢の定紋をつけた駕籠に乘つて大勢の家來を後先に付けた行列が通りました。つかつかとそばへ寄つて、駕籠の中を覗いて、おい、團三郎、さう威張り臭るなよと言ふが早いか、駕籠わきのものが驅け寄つて一刀の下に切つてしまつた[#「切つてしまつた」は底本では「切つてましつた」]さうです。切つて見ると古狐が死んでゐる。白晝のこととて大騷ぎをしたと言ふことです。これは團三郎が豫め加州の登城の時刻を知つて斯くあれかしと謀つてした事でして、其以來團三郎は妖術にかけては日本一と言ふことになつたのださうです。
團三郎だかどうだか知りませんが、今年の春頃、丁度私の宿の近くで雨の夜ごとに僧形の見知らぬものが火の番とすれ違つたさうです。振りかへると姿が見えないと言ふので正しく貉に相違ないと申して居りました。
その前にも二つ岩附近に坊主が出ると言ふ評判がありました。
十月十四日の晩の七時半ごろ山越しに南の方から相川へ戻つて來ますと、丁度もう四五町で相川へ入らうとする、山のおり口で一人の中學生が藁を積んだ處へ何遍も衝突してゐるのに出喰はしました。聲をかけても夢中で藁と衝突をして居ります。やうやく手を引いて路へ出しますとまだよろよろして病人のやうでした。暫く歩かせてから眼も見え足元もたしかになりましたが、私の連は貉がついたのだと申して居りました。
貉のせいかどうか知りませんが、此處には鳥眼がかなり澤山あります。眼の瞼の爛れたのも澤山あります。斜視もざらにあります。濱で採れる若芽を鹽いりにして佐渡芽と稱して賣つて居りますが、越後の人は佐渡の眼病を佐渡目と言つて居ります。此腐れ眼は冬から春までの間に殊に非道くなるらしいのです。縣ではこの眼の惡い原因を花柳病か蒸風呂のためだと考へてゐる樣で、蒸風呂はなるべく禁止して居ります。
蒸風呂と言ふのは鹽の上に藁で出來た大きな袋をかぶせて上から熱湯を注いだ中に人が這入つて蒸されて柔くなつた皮膚を爪で掻いて垢を落とす裝置でして、田舍では今でもこれを行つてゐるので、今の郡長が巡視に行つたときわざわざ風呂場を庭の一隅にこしらへた家もあつたと言ふ位です。人が中に這入つてゐるとも知らずに上から湯を掛けて大火傷をさす事も屡あるさうです。
眼を惡く爲さうな原因は外にも澤山あります。第一に冬になると日光に惠まれない、ただでさへ暗い建築の家は締切りになる、加賀邊の家のやうに天井から明を取るやうにも出來てゐない、さう言ふ處で炬燵に當つて日を暮らす。夜になると穴藏の底のやうな照明力の電燈が僅かに赤味を帶びた色に照るだけです。斯んな事も第一の原因でせう。それに冬になると全然野菜が缺乏します。稀に少し穩な日に三里ばかり南から野菜を賣りに來ることがあつても恐ろしく高い。魚ばかり食べて居るからではないかと思ふのですが、それに雪でいぢめられるからかも知れませんが、冬の終に近づくと毛の色がまるで赤く埃でも浴びたやうに澤の拔けた頭をした女ばかりになります。それが夏を越した今時分になると見られなくなるのです。
藁の中に寢るのも原因の一つかも知れません。比較的町らしい處では藁を布團に填めて使ひます。これは非常に暖でもあり柔で氣持の好いものです。しかし大抵の農家では冬は藁を一部一杯に撒き散らした中に家内中裸で飛び込んで寢るのです。火事が起つて一家藁の中で死んだことがあるとかで、警察で禁止方針をとつてゐるのださうですがなかなかあらたまりません。
裸で寢るのは藁にもぐつて寢ない町の人でも同じことださうです。しかしこれは越後地方でも同樣だとききました。
概して不潔は土地の風でして、何處へ行つても臭くない町は見當りません。島の首府の相川でさへ、一年も住み慣れた私が臭いので寢附かれない晩が折折あります。土地の人は慣れてゐて感じないので餘處から來た人が正直にそれを言つてもありも爲ない事を言ふやうに思はれて大層憤られることがよくあります。下水の一部が水溜りになつてゐる處がありますが、土地が堅いために幾月もの間浸み込まずに腐るのです。相川には小さな流が全町を通じて八つありますが、川に添つて海まで出る路のついてゐるのが却つて災をして、川の口にその邊の臺處の芥を捨てに行くのが山に成つて居るのです。川の中も芥で一杯ですが、その芥の中で洗ひ物をして居ります。いつか署長が役場に川の芥の掃除について注意を與へたことがあるさうです。すると役場の返答は、「あんたまだ新任で土地のことをよく御存知ねえからそんなことを言ふのどす。もう暫く見て居るがええです。ぢきに雨が降つて流してくれるのどす。」と言ふのだつたさうです。しかし、私が來てから甞て一度もさう言ふ大雨は降つたことがありません。
朝起きてはたきの音を聞いたことがありません。鍋釜をほとんど洗ひません。箸を洗ひません。火鉢の掃除は年に一度か二度するのでせう。下着は冬を通して着更へないものが多いやうです。下駄の眞つ黒なのは普通のことです。朝口を漱がないものは澤山居ります。
眼の變な、足の裏の汚い、虱だらけの着物を着た、臭い頭をした美人が、まつ白に白粉をつけてゐるのは天下の奇觀です。
更に内部に這入つて見ますと、わざわざ手の付いてゐるバケツの兩側に手をかけて水を運んだり、右左の手を逆さに使つて掃いたりしてゐるものもあります。立つて掃く帚もバケツも島では新輸入のハイカラ品だからです。アルミニウムの鑛釜は今だに損なものと思はれて居ります。洗はないので底が拔けてしまふのです。食事の時は更に奇觀です。右の手に箸を持ちながら、左の手で魚の骨をつまみ上げてしやぶつて、その手で平氣で何處でもいぢりまはして居ります。
しかし一方にペパミント、キユラソオ、ベルモツト、ブランデイ、トマトソオスなどを飾り立てたバアもあります。七三に分けた女も居ります。鼻筋だけに白粉を付けた滑稽な女も居ります。南洋の新領土の人のやうに、また開國當時の日本のやうに、思ひ切つたハイカラが是認されます。
東京の風だと言へば大抵の惡事までゆるされます。
共産黨も居ります。共産黨がしかも酒を盛に飮んで※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]る共産黨です。
底本:「明星」「明星」發行所
1925(大正14)年1月
初出:「明星」「明星」發行所
1925(大正14)年1月
入力:江南長
校正:小林繁雄
2009年5月3日作成
2009年6月5日修正
青空文庫作成ファイル:
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