することであるけれども余の考ふる所では眞の靜なるものは絶無であつて靜と見えるのは全く動の少ないのではない乎、宇宙萬物皆恆に活動して居るのであらう、其外に唯一の靜なる實在があるとは何分にも考へられぬではない乎、物理學の開けぬ時代には熱の反對に寒なるものがあると考へたのであるが、それは大なる間違で寒と認めるのは全く熱の少ないのであるといふことが解つたのであるが動靜の反對的状態も矢張それと同じことではない乎、併し井上博士は實在は宇宙萬物の一ではない全く宇宙の本源である、それゆへ活動するものではないと言はれる乎も知らぬが其主張の謬つて居ることは後に解るであらう。
評者又曰、右の理を説くには先づ所謂實在即ち宇宙本體なるものから説き始めねばならぬのであるが井上博士に限らず凡て形而上學者と歟又は唯心哲學者と歟いふ者は宇宙の本源として一種の大心靈を認める、尤も是れは必ずしも人格神の如き人間に類似した本體であるとしないにしても必ず畢竟一種の絶大なる意思を有して居るものとなるのであつて是れが即ち全く靜的實在である、カント氏の如きは人格神を信じたのであるけれどもショッペンハウエル氏の如きは左樣なるものは信
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