な腹の立つものはありませんね、ナイフで斬ったって血は出やがらねえし[#「血は出やがらねえし」に傍点]」
 よくその時分、志ん生はこう言っていたが、「血はでやがらねえし」は巧いではないか。今日、彼のギャグのおもしろさがもうこの時に立派な萌芽を示していると思う。しかしその骨の髄まで滲《し》み透るような貧困のどん底生活は、いろいろと彼にめげない逞《たくま》しさを与えた。持ち味のおかしさにも、もっともっと本物の底力ある磨きをかけてくれた。恐らくこの「生活」なくして今日の古今亭志ん生は得られなかったろう。でも、どうしてその時分この生活こそのち[#「のち」に傍点]の最大幸福の原動力なりと本人はもちろん、我々にしても知り得たろう。すべては神のみぞしろしめす、である。
 何より私はそうした彼の数奇な半生に、私自身の姿を見出さずにはいられないのだ。私自身もまた年少にして文筆の生活に入り、時流に耐える底力なく自棄《やけ》の生活を送っているうちにすッてんころりんと落伍してしまい、ひどいひどい貧乏暮らしのありッたけをしてから、やっとこの頃多少でも自分の好きなものだけを書いて世間に問うことができてきたのである。世の中へ出たことは志ん生の方が私より三、四年早かったけれども、志ん馬から馬生と彼の売り出し時代、ほんとうに私は他人事ならずその出世を喜び深く眺めていたことだった。そうして彼も近来恐らく同様の感慨を、私の上に抱いているのではないのだろうか。すなわち何か身近なものを私の上に見出しているのではないだろうか。新作嫌いのこの男が、最近「寄席」「圓朝」と二つも私の長篇小説を自由に脚色し、構成して、高座《いた》にかけ、内的にも奏効していることを思えば――。
「寄席」は昭和十七年十一月、十二月の二回にわたる発表(神田花月、昼席)だったが、あの噺の中で志ん生はお艶《えん》ちゃんの仄《ほの》白い顔をチラッと美しく描いてくれた。熱海でザブリ温泉へ飛び込んで「芸」の修業の難しさを語る時の今松の独白には、ジーンとこちらの胸まで熱くさせるものがあった。横浜でペスト劇を訪ねて失望落胆するくだりに至っては、ひそかに作者の期待していたのと寸分違わぬ馬鹿馬鹿しさがそこここに満ち溢れて、すこぶる私は満足だった。
「……私は少し今松に似ているのかもしれない」
 その時地のところでこう言って志ん生は笑わせたけれど、まさしくそれ
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