次郎で、すなわち道行興鮫肌であったろうと想像されるが、本人はどうして、なかなかの御機嫌で、「これでやっと終生ののぞみがかなった」と言ってノメノメと帰って来たそうだから、世話はない。
いかにも、時世のよかった頃の芸人の横顔をまざまざと見せられる感じではないか。
お通夜の晩に、お経の代わりに二十五座の馬鹿囃子をやってくれと頼んで死んだのも、この圓遊だった。――その遺言はさっそくに実行されたと聞いているが当時の圓遊はたしか、浅草の三筋町に住んでいたはずだ。
今のように、落語家がお大名のお下邸みたいな邸宅を構えない時代だから、おそらく一世をときめいた圓遊の住居も、いかにも、旧東京らしい、下町らしい、慎みぶかい人情をもった小意気な世帯だったにちがいない。
そうした家から、夜をひと夜笑いさざめく声とともに(断っておくが、世に、落語家のお通夜ほどバカバカしく、おもしろいものはない。これだけは今日といえども変わっていない)、テケテン、テンドンと流れてきたろう馬鹿囃子の音色を考えると、明治の末年らしいしめやかな「東京の呼吸」をなつかしく感じないわけにはゆかない。
ところで、圓遊の逃げた先が上総《かずさ》の木更津だったとのことだが、かの切られ与三郎を待つまでもなく、江戸末年から明治へかけての木更津は、ひと頃の横浜ぐらいに、繁華な文明な、うれしい港であったにちがいない。
すでに「初天神」という落語の、職人夫婦の物語にも、
「俺とお前が木更津へ逃げた時分のことを考えりゃア……」
というセリフがあるし、先々代圓蔵が得意とした「派手彦」で白鼠の番頭さんが阪東なにがしという踊りのお師匠さんを病気になるほど思いつめ、とど夫婦になる。
この、美しいお師匠さんが、お祭りによばれてゆく先もやっぱりかの木更津である。
「義士伝」の倉橋伝助が、まだ長谷川金次郎といって飲む打つ買うの三道楽であった時分、江戸を食いつめて、落ちゆく先も御多分に洩れず、木更津だったと覚えている。
私は、今から二十年以上――といえば、まだ、十二、三の時であるが――いっぺん、行っただけであるが、夏は町はずれの蓮田へひらく紅白の花の美しさを今も身うちの涼しくなる風情に思い返すことができる。
「木更津甚句」という、明治中世のはやり唄には
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※[#歌記号、1−3−28]木更津曇るともお江戸は晴れろ
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