事 初代 橘之助」と紫色のスタンプインクが押してあり、内容な年少断髪の高座姿(圓朝賛、圓橘画)とやや老けている時代と、そうして晩年に近いあの姿とである。なつかしい東京の忘れ形見として、いつまでも私は大切にとっておきたいと思っている。
たった一枚、わが愛蔵の音盤はとっちりとん[#「とっちりとん」に傍点]の「あひるの卵」。何よりパチンと卵の殻の破れるその撥《ばち》さばきが至宝である。
同じとっちりんとん[#「とっちりんとん」に傍点]で朝顔の琴の音はあまりにも如実に、三番叟《さんばそう》への鈴音は迫真のなかにさんさんとふりそそぐ春の日、またその日の中に光りかがやく金鈴の色を手にとるように見せてくれた。
※[#歌記号、1−3−28]水戸様は丸に水……という大津絵の「水づくし」も古風で軽妙至極のものだったし、十八番の「狸」には芳藤描く江戸|手遊絵《おもちゃえ》の夢があった。
自ら浮世節家元を唱えていたが、そもそも浮世節とは市井巷間《しせいこうかん》の時花《はやり》唄の中に長唄清元、常磐津、新内、時に説教節、源氏節までをアンコに採り入れ、しかもそれらがことごとく本筋に聴かし得て、初めてその名を許されるのではなかろうか。それにはまた、曲弾きとはいえ、橘之助の場合、決してただ単に三味線をオモチャにして奇を衒《てら》っているのではなく、あくまで姿態や情景をそこにほうふつと見せてくれていたところに立派な不世出な芸境があったとはいえよう。
「狸」といえば、一番おしまいにこの人を聴いたのが、昭和九年秋、東宝名人会第一回公演のしかも初日、死んだ新内の春太夫などといっしょに出演して、いとしみじみと力演したのが「狸」だった。
そのあくる年の夏、橘之助は京都の大洪水《おおみず》で、夫の圓と死んでしまった。
[#改ページ]
圓太郎の代々
私に
[#ここから2字下げ]
南瓜咲くや圓太郎いまだ病みしまま
[#ここで字下げ終わり]
の句がある。去年昭和十七年の春、七代目橘家圓太郎を私たちが襲名させ、たった二へん高座から喇叭《ラッパ》を吹かせたままでいまだに患いついてしまっている壮年の落語家の上を思っての詠である。もうそろそろそれから一年目になるこの浅春、だいぶ快方に赴いたらしい手紙を本人からもらい、いかばかりか私はもちろん、平常《ふだん》からひと方ならず目をかけてやっていた女房も
前へ
次へ
全26ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 容 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング