て同君がはるばる八王子駅まで帰って来たら、山なす出迎えの人たちの中で一人がブーブーこれを吹き立てた由だ。喇叭の圓太郎襲名に相応しいいかにもうれしい話ではないか。その話の最中へ、桂文楽君がやってくる。昨日文楽会忘年宴を休んだため、心配して来てくれたのなり。かたがた、来春の文楽会の打ち合わせ、向上会のことなど、いろいろ相談する。相変わらず文楽君の話はその得意とする「つるつる」や「干物箱」や「鰻の幇間」中の人物のように軽くやわらかく愉しくていい。師走を忘れて他愛なく笑ってしまう。
 文楽君帰り、やがて百圓君たちも帰る。
 早い夕食を終えて女房と、近くの大塚鈴本へ。今夜は太神楽大会。去年見損っていたものなり。入って行くとすっかり年老《としと》って見ちがえてしまったバンカラの唐茄子が知らない男と獅子をつかっている。楽屋で時々「めでたいめでたい」というような声をかけるのがひどく古風でおもしろい。続いて唐茄子がやはり知らない男と「神力万歳」というむやみに相手の真似ばかりしたがる可笑味のものを演る。理屈なしに下らなく可笑しい。温故知新というところだろう、まさしくこれなどは。そのあといろいろ間へ挟まる曲芸の、五階茶碗や盆の曲や傘の曲やマストンの玉乗りやそうしたものの中では丸井亀次郎(?)父子の一つ鞠《まり》ががめずらしく手の込んだ難しい曲技を次々と見せてくれた。あくまで笑いのないまっとうな技ばかりで、その技がみなあまりにもたしかなので好意が持てた。近頃こんな上手がでてきたのは頼もしい。
 若い海老蔵が「源三位《げんさんみ》」を演るとて、文楽人形にありそうな眉毛の濃く長いそのため目の窪んで見える異相の年配の男を連れて出てきた。いずくんぞしらん、これが往年の湊家小亀だった。何年見なかったろう私はこの男を。その間の歳月がまるでこの男の人相を変えてしまっているのだった、でもだんだん見ているうちに額に瘤《こぶ》のあるなつかしいあの昔のおもかげが感じられてきた。それにこの頃少しも高座へ出ないが生活も悪くないと見えてチャンとした扮《こしら》えをしていた。艶々と顔も張り切っていた。少なからず私は安心した。浅草育ちの私にとって湊家小亀は十二階の窓々へかがやく暮春の夕日の光といっしょに、忘れられない幼き夢のふるさとである。感傷である。新内もやらず、得意の関東節も歌わなかったが、そうして衰えは感じられたが
前へ 次へ
全26ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 容 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング