とおたよりもしないでいた先生からは、阪地に病みて久しい三遊亭圓馬(三代目)慰むる会を催したことをよすが[#「よすが」に傍点]に、ゆくりなくもこのほど音信に接することができた。それはつい十日と経たない前の出来事で、古川|緑波《ろっぱ》も徳川夢声も高篤三も、親しい友だちはみな我がことのように欣んでくれた。そうしたことも今この馬楽の歌の三味線に、いっそう私を泣かしめたのだった。ようやくに堪《こら》えてソーッと目を見開いた時、濃茶色の洋服にめっきり老いた三遊亭圓遊も、しきりにハンケチで目頭を拭いていた。私の死んだ時もこれをお経の代わりにやってくださいよ、その時古今亭志ん生はこう言ったっけ。
 お墓へ行った。お墓といってもほんとうのお墓は築地の門跡様の寺中にあったのだから、もう無縁で恐らく跡形もなくなっているだろう、三代目小さん・今輔・馬生・文楽・左楽・つばめ・志ん生・燕枝の柳派の人たちで建立した座像のお地蔵様ばかりがここに残っている。その建立した人たちも今ではみな死んでしまって、今日も来てくれている柳亭左楽がわずかに達者でいるばかりである。緋桃《ひとう》が、連翹《れんぎょう》が、※[#「木+虎」の「儿」に代えて「且」、第4水準2−15−45]子《しどみ》が、金盞花《きんせんか》が、モヤモヤとした香煙の中に、早春らしく綻びて微笑《わら》っていた。また文弥君が、最前の短歌を繰り返し繰り返し、朗詠しだした。

 そのあと、近くの明月園で心ばかりの午餐を食べてもらった。寄せ書きをして、吉井先生、久保田さんへ送った。
 席上、貞山がこんな話をした。
 年の暮れ、この頃山の宿にいた馬楽のところへ行ったら「加藤清正蔚山に籠る」と書いてくれと言う。よしよしとそう書いてやったら、その次へ「谷干城熊本城へ籠る」と書いてくれと言う。また書いてやったら、今度はそのあとへ「本間弥太郎当家の二階へ籠る」と自分で書き、堂々と玄関へ貼り出した。そうしてそれを大家に見せて談じ込み(いったいどんな談じ方をしたのだろう!)とうとう家賃を負けさせてしまった、と。いかにも「古袷秋刀魚にあわす顔もなし」と詠んだこの男らしくておもしろい。
 左楽はまたこんな話をした。
 初音屋と呼ばれた人情噺の柳朝(春風亭・三代目)と馬楽と自分と三人でひと晩遊びに行ったが、その頃のお歯黒溝に沿った家々にはみな跳橋《はねばし》というもの
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