私は、いや、私はじゃない、すべて愚かなほど一事に精魂傾け尽している人たちには、あらゆるいけない凶《わる》いことも、側からどんどん吉《よ》いことに変えられていくのだろう、まるで手品師《てづまし》が真っ白なまま函へ入れた※[#「米+參」、第3水準1−89−88]粉《しんこ》細工の蓋《ふた》とればたちまち紅美しき桃の花一輪とは変っているように。
 心だにまことの道にかないなば、祈らずとても神や守らん――ほんとうにほんとうだった、この歌のこの心持のほどが。
 豁然《かつぜん》といま圓朝は心の壁が崩れ落ち、扉が開かれ、行く手遥かに明るく何をか見はるかすの思いがした。いままでとても幾度か幾度か心に黎明はかんじたけれど、あれらをかりそめの町中での夜明け空とするならば、これは比べものにも何にもならない夏草しとど露めきて百花乱るる荒漠千里の大高原に、真ッ裸になって打ち仰ぐ大日輪の光りにも似たるものよとおもわないわけにはゆかなかった。
 とても言葉でいいあらわせない感銘だった、感激だった。
 ポトリ涙が目のふちへ滲んだ。
 と見る間に溢れた。
 あとからあとから流れだしてきた。
 いつ迄もそれが止まらなかった。
 果ては顔中がベトベトになってしまって、尚かつひっきりなしにはふり[#「はふり」に傍点]落ちてくるもののあることが仕方がなかった。
 いつか音に立てて圓朝は男泣きに泣きだしてさえ、いた、表の、いよいよ風まじえ、暴れ、哮《たけ》り乱れ鳴る小銃の音すら遮って降りつのりまた降りつのる底抜雨のざざ降りに、今ぞ根こそぎ快く身をも心をも洗い尽されるようなものを感じながら。



底本:「小説 圓朝」河出文庫、河出書房新社
   2005(平成17)年7月20日初版発行
底本の親本:「小説 圓朝」三杏書院
   1943(昭和18)年4月刊
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※編集部のつけた各章のサブタイトルは省きました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年1月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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