み方のいろはのいの字を、昨日、教わり立てのホヤホヤだった。
 冷え冷えとした匂いのする店の間へきて小さな槌を取り上げると次郎吉は、土間にころがっている手ごろな石の破片《かけら》を膝に、カチカチカチンとでたらめに刻みだした。もちろん、おもうようにはゆくわけがない、自分でこれが自分の手かと疑えるほどまるでいうことをきかなかった。そういっても下らなくなるほど、槌握った手が不器用にひとつところばかりをどうどうめぐりしていた。
 カチカチカチン。
 カチカチカチカチン。
 でもしばらく繰り返してやっているうち、だんだんその槌打つ拍子にある種の調子が加わりだした。
 カチ、カカカカ、カチン。
 カ、カ、カ、カチン。
 カチカチカチカチン……。
 しかも、それは何か、どこかでたしかにいくたびか聞いたことのある、節面白い調子だった。
 カ、カ、カ、カ、カチン。
 カチカチカチンチン……ときた。
 さらに何べんも繰り返しているうち、
 ア、アー、そうか――
 はじめて次郎吉は肯いた。破顔一笑せずにはいられなかった。
 広小路の本牧亭《ほんもくてい》や神田の小柳や今川橋の染川で、親爺に連れていって貰って聴いたことのある講釈師の修羅場《ひらば》。そのヒラバの張扇《はりおうぎ》の入れ方だったっけ、今この自分の槌の入れようは。
 いいなあヒラバ、勇ましくって。
 思わずゴクリと生唾を飲み干すと次郎吉は、表に人通りのないのを幸いに、改めて小声で石の空板を叩きはじめた。
 カチン――まず咳《がい》一|咳《がい》、ひとつ叩いた、こう講釈師らしく胸を反らして。
「さてもその日の謙信は……」
 やがて滔々《とうとう》と読みはじめた。大好きな「川中島合戦」の一節だった。元よりうろおぼえの口から出任せではあったけれど。
 カチン、カチン。
「……紺糸龍胴の鎧、白木綿に梵字を認めたる行者衣を鎧の上に投げかけられ、三尺の青竹を手元を直《すぐ》に切り……」
 カチカチカチン。
「尖頭《さき》斜に削ぎて采配の代りに持たれ、天下開けて、十九刎の兜の内に行者頭巾に鉢銑《はちがね》入ったるを頭《こうべ》に頂き……」
 カチリ、カチカチン。
「……越後国|頸城《けいせい》郡林泉寺村真日山林泉寺に馬頭観音と祭られたる法性月毛の十寸六寸《ときろくすん》にあまる名馬に打ち跨り……」
 カチカチカチカチン。
 一段と声張り上げて
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