た。
「…………」
 圓朝の喜びは文字通り筆紙に尽せなかった。はるばる山手《のて》からその交渉にきてくれた瘠せた下足番の爺さんへ、心の中で手を合わせたくらいだった。よちよちかえっていく爺さんのこけた背中の辺りからは、キラキラ後光が映《さ》しているようにすらおもわれた。
 青山南町なら、例の赤坂の宮志多亭へほんのひとまたぎであることも妙にうれしかった。
 雷隠居だってきっとこの私の看板を見るにちがいない。
 ただひとつ問題は寄席のほうから、スケを師匠の二代目圓生にぜひねがいたいと註文されたことだった。
「…………」
 ハタと圓朝は困ってしまった。
 まさか現在の師匠を只今不首尾になっておりますとはいえなかった。
 第一先方としても、まだ脂《やに》っこいこの自分に真打《とり》をとらせてくれる以上は、せめて師匠くらいのところを助《す》けさせなければ看板|面《づら》花やかに客が呼べないものとおもっているくらいのことは、圓朝といえどもよウく分り過ぎるほど分っていた。
 だけにいっそう辛かった。
 よろしゅうございます。真打の取りたい一心でこう容易《たやす》く引き受けてはしまったものの、このごろ何かにつけて自分に当りの烈しい師匠圓生。
 果而《はたして》ウムといってくれるだろうか。
 考えると心細かった。
 誰がお前なんかにと、剣もホロロに横に首《かぶり》を振られてしまうのじゃなかろうか。
 もし振られてしまったら、何としよう。
「…………」
 しばらく圓朝はとつおいつ[#「とつおいつ」に傍点]した。
 どういつまで思いを巡らしていたとても、この心の循環小数はどこへ落ち着こうすべ[#「すべ」に傍点]もなかった。いたずらなどうどう[#「どうどう」に傍点]めぐりを繰り返しているばかりだった。
「エエ仕方がない、当って砕けろ、ぶつかってみよう、そうして小向かいで膝を抱いて話してみよう。それでいけないッたらまたそのときはそのときのことだ」
 万々一、最悪のときは文楽師匠にすがってみてもいいとおもった。
「ねえ皆《みんな》喜んでおくれ、いよいよお正月の下席から青山久保本で私の真打だ。多分もうハッキリと定《き》まるだろう」
 覚悟が定まると、にわかに心が浮き立ってきてさっそく外出着《よそゆき》に着換えて出掛けるとき、たまたま来合わせていた双親に、弟子たちに、明るく圓朝はこういった。
「エ、
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