だった。
 どうしよう、では。
 どうするのだ、一体。
 狂おしく心が、心にこう訊ねてきた。しばし小圓太は唇を噛んだ。招き行燈の字面をみつめて、悲しく腹立たしく立ちつくしていた。
「……」
 それから小半刻もそこにそうやって立ったままでいたろうか、やがてはじめてあきらめたように向き直ると、小圓太は闇へトボトボ歩きだした。
 今夜のこと、そりゃ口惜しいには口惜しいが、いや口惜しくて口惜しくて死にたいほど無念残念やる方ないのだが、でも恐らく誰もが一度は必ず通った修業街道の「門」なのだろう。
 だとしたら……だとしたら、エエ仕方がない、俺もくぐろう。
 くぐって、またくぐって、どこ迄もくぐり抜こう。そうして、宮志多亭の雷隠居めを見返してやろう。
 それより、そのことより他に、手はないのだ、全く。
 いみじくもそうおもい定めたとき、クルリとまた首だけ小圓太は振り向いた。もういっぺん春寒の夜空に揺れている「桂文楽」の招き行燈をハッタと睨んだ、またしても涙いっぱいの目で。
「見ろ今に。あの行燈の中へきっと俺、三遊亭小圓太の名前を書き込ませてやるから。見ろ見ろ見ていろ雷爺め」
 声は傍から夜風に吹きはらわれていったか、筒いっぱいにこう怒鳴った。
 腰の提灯取り出して灯を点けようともせず、そのまんま後をも見ずに駈けだした。


     六

 一心不乱に勉強しだした、小圓太は。
 ぽつぽつ師匠も噺を教えてくれはじめ、日一日とすじみちはあいてゆく塩梅だったが、なかなかいまはそんなことでは満足してはいられなくなっていた。
 なるんだ、偉くなるんだ。
 一日も早く偉くならなければ、俺は。
 毎晩々々楽屋へいっては前座として働くだけ働き抜いたあと、少しでも間があるとシッカリ楽屋格子へつかまっては、どんな人の噺でも咳ひとつ聴き落とすまいと心がけた。
 その時分、師匠の真打席《とりせき》と文楽師匠の真打席とてれこ[#「てれこ」に傍点]につかって貰うようになっていたのだったが、どこの寄席でも十五日間小圓太のかよってくるところの楽屋格子は必ず手垢でベットリ薄黒く汚れてしまっていた。
 その上、昼間、少しでも暇がみつかると小圓太は、プイと師匠の家を飛び出し、近くのおし原亭あたり、昼席へいった。
 楽屋から客席へとおしてもらい、先輩たちの噺を真正面から取っ組んでは勉強した。これは仲々の薬になった。

前へ 次へ
全134ページ中52ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 容 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング