の場合も多くは前記の「刀屋丁稚」とか「恵美須小判」とかのごとく、余りにも意表の場面で意表の人物が猥雑のことを云ふので明るい可笑しさが先立つて可成に不快感からは救はれた。
世人一と口に、彼を目して初代春団治と云つてゐるが、初代ではない、二代目である。初代春団治は故春団治の兄弟子で、志々喰屋橋圭春亭席元となつた仁。今日、二代目を初代と云ふは、一に二代目の盛名が一代を圧したからに他ならない。ステテコの円遊もじつは二代目で初代は円朝門下の先々代新朝であり、猫八も先年死んだべらんめえの中風の人は二代目であつたが、みなその人気旺盛のため、誤つて初代と呼ばれた。大正元年、道修町の薬種屋の未亡人が春団治の贔屓となり、巨額を投じてこの人を引き立てた。後家ころしと呼ばれた春団治は、さうした艶情すらが人気を助けるに至つた幸福人であつた。やがて彼はこの未亡人と夫婦になり、死ぬまでを同棲した。いよ/\幸福人と云はねばなるまい。
一代を花やかな人気で飾つた春団治も、僅に晩年の幾年かは不遇であつた。金語楼の擡頭に一籌を輸され(その金語楼は売出し以前、下阪するたび始終、筆者と春団治研究に歩いたものであつた)、愚劣な漫才の横行にもその人気を奪はれた。借金もいよ/\嵩んだ。そこで差押へになつたとき、朝日新聞社が撮影に行つたら、傍への物品に貼つてあつた差押への紙を一枚貼がし、ペロリと出した舌の上へ貼付けて写真を撮つた。その見舞にいつた門人の小春団治へは、何十年となく芸人は借金しろ/\と云つてゐた彼なのに流石にその朝許りはすつかりとガツカリしてゐて、その顔を見るなり、
「オイ、芸人は借金したらあかんぞ」
と云ひ、
(今ごろ、もう、遅いわい)
と腹の中で、小春団治をして噴飯させた。
この二つの挿話はいづれも春団治の面目躍如たるものがある。このやうに彼は春団治落語中の爆笑人物と同一系歴の性格であり、日常であつた。重ねて云ふが、であるから、彼の荒唐無稽には真実籠るものがあつたと云へよう。
今日、いろいろのレコードに彼の十八番物はのこつてゐるが、ニツトーレコード以外のものはみな面白くない。ニツトーは多年専属で馴染であつた故、吹込以前に社員と馬鹿話をして吹込むので味がでてゐる。他社のは他人行儀に吹込んだ故、脂が乗つてゐない。ここらも春団治のいいところではないかとおもふ。
昭和九年秋、中村鴈次郎と相前後
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