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※[#歌記号、1−3−28]韓信が股をくぐった末見やしゃんせ
踏まれた草にも花が咲く
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って、まったく、あれ、あれですねえ。
さてこの私という馬鹿野郎は申し上げたような仕儀で、あまり初手からいい目が出すぎてしまったもんだから、勝って兜の緒をしめなかった。いいえ、自分じゃすぐにも大看板《おおかんばん》になれる気で勉強をしていたんですが、この頃になって静かに振り返ってみると、やっぱりあの頃の私の勉強てのはてんで独りよがりで、なっちゃなかったんです。どういうふうになっちゃなかったか、それはワザともうしばらく申し上げないでおくとして、なにしろ私は仲間からほめられるほめられる、やたらこたら[#「やたらこたら」に傍点]とほめられるのですが、さてほめられるばかりで一向にパッとしません。お客様にてんで[#「てんで」に傍点]受けず、その結果がどこの席亭でもちっともつかっちゃくれないという始末なんです。
二年、三年、四年、五年――もう五年の月日がそこに経ちましたが、まったくの居据《いずわ》りでどうにもこうにもしようがないんです。こうなるとはじめの一年ばかりの経つののめざましいくらい早かったに引き代えて、あとの五年の永かった永かった、居据りながら歩いているような心もちでしたよ。
したがって、収入もない。
親父の奉還金のなかから私の分としてとっておいてくれたお金も、もう一人前になれるだろうなれるだろうでとうとうみんなつかってしまい、それでもまだ一人前にはなれるどころか、一年三百六十五日、平均《おしなら》して六銭ぐらいしかとれません。いくら物価《ものなり》の安い時分でもそれじゃお粥もすすれませんよ。
そこへもってきて引き立ってくれていたチウチウ燕路は死んでしまい、悪いときには悪いもんですね、私の燕花という名前は蔵前の柳枝さんの前名で、その次がチウチウ燕路の前名、つづいてその頃売出しだった先代小さん、つまり禽語楼《きんごろう》小さんさんの前名と、柳派では大《だい》の出世名前だったわけなのですが、みすみすその縁起のいい名前を返して都川歌太郎を名のらなければならないようなことにまでなってしまいました。それは柳枝さんの元のお神《かみ》さんの小満之助《こまのすけ》という音曲師が大阪から帰って来て、三代目|都々逸坊扇歌《どどいつぼうせんか》となった。元のお神さんだった関係から頭取の柳枝さんへ話し、柳枝さんからまた師匠へ話して、無理に私を歌太郎と改名させ、この扇歌の前へつかわれるようなことになってしまったからです。
ところが、この扇歌が評判がよくない。
したがっていよいよ私は売れない。今までだっていい加減、貧乏のところへもってきてそれがいっそう烈《はげ》しくなり、とうとうお粥もすすれないようになってきました。
でもなんとかしていい落語家になりたいと、その頃、京橋の金沢の昼席を、三年間、柳枝さんが真打をつとめていましたが、私はここへ勉強のため、無給金でつとめました。どうして無給金かというと、もともと、お客が十五人か二十人しか来ない。したがっててんで[#「てんで」に傍点]楽屋入りもないところから、ここは落語家の無料で出演する修業場所としてあったのです。夏なんか洋傘《こうもりがさ》が買えなくって頬かむりをしては楽屋入りしたものですっかり色が黒くなって、お前、流行《はやり》の海水浴に行ったのかと冷やかされたこともよくありました。昼席がハネて寄席へまわるのにみんな楽屋で弁当をつかいますが、私はつかいたいにもその弁当がなく、「ちょいと、めしを食ってくる」と表へ出てワザと襟へ挟んでおいた古い楊枝を斜めにくわえて、ああ、どこそこのなにはちょいとやれるぜなどといい加減なことを言って、さもさも食べたような顔をして帰ってきたこともありました。ある日、逆さにふっても鼻血も出ない一文無しでこの金沢の楽屋を出て、京橋の上へかかってきたら忘れもしない爺さんの乞食《おこも》が、自分の前に七、八銭並べて、どうぞやどうぞやとお辞儀をしている。ああ、あるところにゃあるもんだなあとジーッと立ちどまって見つめていたら、急にその乞食が立ち上がってそのお銭《あし》を懐中《ふところ》へ、さも薄気味悪そうにスーッとどこかへ行ってしまったのは大笑いでした。もっともこの乞食の爺さんにはもうひとつ、後日物語があります。そののち私がすこうしはどうにかなってきてからやっぱり金沢へかかったとき、やっぱりこの爺さん京橋の上に座ってお辞儀をしているのでわが身に引き比べてなんともかわいそうになり、一銭取り出してやろうとしましたら、ヒョイと私の顔を見てその爺さんが、「アアお前さんのはいりませんよ」とニコニコ手を振って断わられたには、いよいよどうも大笑いです。摩利支天《まりしてん》にも見放され……とは「関取千両幟《せきとりせんりょうのぼり》」ですが、乞食に見放されたのは芸界広しといえどもまず私でございましょう。でもそのときばかりはおかしいような情ないような、われながらへんてこ[#「へんてこ」に傍点]な心もちになりましたよ。
そのうち、今度はその昼席へも出られなくなってしまった。というので夜分は襟垢のついたものでもわからないが、昼間はお客さまに失礼でそんな色の変わったものを着ては出られない。
しかたがないので死んだ先代の柳條さんたち四、五人と苦しまぎれに足利へ興行に行ってみたのです。するとこれが初日に七人しかお客が来ない。どこにもこうにも、これじゃ二進《にっち》も三進《さっち》もゆきやしません。
東京へ帰るにしても五人の頭へ四人分の路金《ろぎん》しかない。しかたがないのでたまたま足利の芝居へ昔なじみの常磐津の鎌太夫が来ていたのを幸い、皆には先へ帰ってもらい、私だけその座に七日つかってもらって、やっとほんの雀の涙ほどのお宝をいただいて後からみんなを追い駆けました。
ところがまぬけなときはこうもまぬけなことになるもんですかねえ。途中あれはなんといったでしょうか、渡船《わたし》がある。私にこの船賃がないんです。といってまさかに泳いでも渡れない。すっかり途方に暮れてしまっていると天の助けかすぐ脇の一膳めし屋へ、額へ即効紙を貼った汚い婆さんがジャカジャカ三味線を弾いて、塩辛声で瞽女唄《ごぜうた》のようなものを歌って門付《かどづけ》をやっているんです。得たりとそこへ飛び込んでいって無理にその婆さんに都々逸《どどいつ》を弾いてもらって二つ三つ歌っていたら、入口のちかくでめしを食っていた東京者らしいお職人衆がホラヨといくらかのお銭《あし》を投げてくれました。そのときの天にも昇るようなうれしさ。すぐ婆さんと半分ずつ分けて、おかげでやっとその渡しを渡って、東京まで帰ってくることができました。
それからすこし経って師匠燕枝の一座《しばい》で横浜へ行きましたが、このとき私が「本膳」を演ったら、その晩、年枝という兄弟子が私を万鉄という牛《うし》屋へ連れていってくれ、お前はたしかに出世をする、うちの師匠は誰の芸を聴いてもすこしあすこがどうだとかこうだとか決してほめたことがないのだが、それが今夜、お前の「本膳」を聴いて、しばらく聴かないうちにすっかりものになってきた、このくらいの落語家が昔あると、ぶっつけ[#「ぶっつけ」に傍点]真打だがと言っていた、ほんとに珍しいこッたから、しっかり勉強をおしよと励ましてくれました(もっともこの年枝ともう一人、鶴枝というこれも没《なくな》りました二人は、私が京橋で乞食の爺さんに逃げられた時分、ホトホト自分の境涯に愛想を尽かしてしまい、もう落語家はやめようかと相談にいったときも、二人して苦しかろうがもうすこし辛抱をおしなさい、必ずお前さんは末の見込みがあるからと思い止まらせてくれたくらいの私のひいきだったのです。それゆえ、こちらも恩返しにそののち私が看板を上げてからは死ぬまでこの二人に前へ出ていてもらいましたが)。
やかましやの師匠燕枝がほめてくれたと聞き、それはまんざらうれしくないことはありませんでしたが、じつはほんとうのことを言うと、もうそのとき私はそんなことをすっかりアテにしなくなってしまっていました。十年一日――曇りの次は雨、雨の次は雪また嵐と年がら年中この繰り返しで、ほんとに日の目ひとつ見たことのない私は、なまじはじめの出が華やかだっただけに今ではすっかり心もちが怯《ひが》んで腐りきってしまっていたのです。
ほんとかなあ、そんな。信じられないなあ、なんだか。年枝さんは俺がひいきだからそんなことを言って俺をよろこばしてるんだ。
ただそうとのみ考えて、形だけのお辞儀だけはしながらも格別うれしそうな顔も見せず、それよりもひさしぶりの牛肉のほうがうれしくってムシャムシャ片っ端からたいらげていた始末でした。ただ、こんなにも腐りきってしまっているときでも、性質のそそっかし屋だけはやっはり直らず、牛とまちがえて生葱を三度もガリガリと齧《かじ》ってしまい、そのたんび年枝さんをふき出させましたよ。
でも。
この師匠燕枝のほめてくれたのは、決して年枝さんのうれしがらせではないということが間もなくわかりました。帰ってから八丁堀の朝田が柳桜師匠とうちの師匠の二枚看板で、このときに師匠は「仏国三人男」という新作の西洋人情噺を、三遊の圓朝さんの向こうを張ってこしらえていましたが、そのなかに「本膳」と同じ呼吸のところがある。で、横浜で聴いたお前の「本膳」がよほどよかったから今夜はひとつ聴かせてくれとこう言われ、ではまんざら年枝さんのお世辞でもなかったのだなと初めてわかったことだったんです。言われるままに私はその晩「本膳」を演って下りてくると、今夜は俺が聴いているせいか、横浜のときよりよほどうまかったぜと笑いながら師匠に肩を叩かれましたが、さてそのあとで楽屋の奥の誰も人の来ないところへ連れていかれると、ピタリと師匠はそこへ座って、お前は私とはまことに縁が薄く、弟子になるとすぐお前は燕路や柳枝の手塩にかけられ、そのあと今度は扇歌の手人《てびと》に借りられてしまったりして、ほとんど高座を聴くこともなかったが、サ、今日こそはいろいろ噺のコツを教えてやろう、いいか生酔の急所はこうなんだ、また百姓はこういう目をしなければいけない、破落戸《ごろつき》はこういう手つき、職人はここへこう手を置くものだ、それから侍は肩をいからして手をこう置くし、大名のときはこうやるんだとすべていちいち手帖へ控えておきたいくらいに士農工商それぞれの言語動作を隅から隅まで、わずかの時間にすっかりと教えてくれました。みなウームウームと唸ってしまうくらい、肯綮《こうけい》にあたっていることばかりでした。なんだか自分の粗悪な「芸」の着物を、いっぺんに極上等の染粉をつかって見ちがえるように洗いあげられたようなすがすがしさを感じました。すっかり身が、心が、ぽってりと肥えて太ってきたかんじでした。
だのに、だのに。
やっぱり、売れない。売れないんです、からっきし[#「からっきし」に傍点]。ばかりか三軒あった掛け持ちは二軒に、二軒のところはまた一軒にとだんだんあとびっしゃりをしていくのはひどすぎる。
こうなるともう私は、怨とか、腐るとかいうことでなく、真剣に、肚の底から腹を立ててしまいましたね。
冗、冗談じゃない、てんだ。
つもってもみてくれ。
うそにもよっぽどどこかに見どこがあると思えばこそ師匠燕枝も、親しく小対《こむか》いになって「芸」の急所や奥許しを、惜し気もなく私にさらけだしてみせてしまってくれたのだろう。
だのに、それがやっぱり売れないときては、わかった、みんなして寄ってたかって俺をバカにしているんだ。
いい加減なでたらめばかり言っておだてちゃ、陰で赤い舌を出してよろこんでいやがるんだ。
人をも世をも怨みわびとでもいいましょうか、果てはほんとに世のなかが、まわりの人たちが、ただわけもなくうらめしくてうらめしくてならなくなった。みんな仇《かたき》だ、みんな敵なんだ、人を見たら泥
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