常磐津をやったら、すぐ太夫になれた、またちょいと鍛帳芝居へ出たらすぐにお金がとれた。これがごくごくいけなかったので、そこへもってきていたってまた人間がそそっかしいときているから、ただもう安直に世のなかをうれしがってしまったんでしょう。同じ常磐津の太夫になったとしても、檜《ひのき》舞台へでもつかってもらって初めからウンウン苦しめば、なかなか世のなかを甘くなんか見なかったんですが――。
 そのうえ信州の旅へ出て、上田で岸沢小まつという女の師匠で荒物屋を営んでいる人のところへ厄介になっていると、その土地に昔の名人で土橋亭《どきょうてい》りう馬という人の弟で今は料理屋の旦那の志ん馬《ば》、この志ん馬と小まつさんとが二枚看板で上田の芝居小屋を開けたのですが、あまりの大入りで二日目に志ん馬、咽喉を痛めてしゃべれなくなってしまった。そこで私が一段、助《スケ》ることになったのだが、なにしろ小まつさんが常磐津でまた私が常磐津。そうそう常磐津ばかり語ってはいられない。そこで私が大胆千万にも聞き覚えの「藪《やぶ》医者」という落語を一席|演《や》った。するとこいつがたいへんお客に受けて、楽屋で聴いていた志ん馬もあれだけに演れるならぜひ毎晩一席ずつ演ってくれと言う。そこでこっちもいい心持ちんなって「金明竹《きんめいちく》」「たらちめ」と、いろいろ御機嫌を伺ってると、これがみんなワッワッと受けるんです。これもごく私のためには、いけなかった。
 そのうえ、志ん馬の咽喉が治って今度は近くの八幡というところへ、二人《ににん》会で出かけていった。このときには毎晩二席ずつ演るので演題《やりもの》に困って、浄瑠璃の「仮名手本忠臣蔵」。あの大序の※[#歌記号、1−3−28]|嘉肴《かこう》ありと雖《いえど》も、食さじされば味わいをしらず――あすこから三段目、殿中の喧嘩場まで、本をそのまま素読みにして講釈のように演ってみたんですが、そうすると、また、これが受ける。あくる晩は四段目、五段目、六段目と演ってみましたが、しめてかかると判官《ほうがん》様や勘平の切腹では田舎の人たちがみんなポロポロ涙をこぼして聴いてくれるんです。とうとうしまいには真打の志ん馬のほうが私に食われ加減にさえなってきました。いよいよ、私のためにはいけませんでした。
 ちょいとここで余談にわたりますが、この八幡の興行でお客様が木戸銭の代わりに
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