《まりしてん》にも見放され……とは「関取千両幟《せきとりせんりょうのぼり》」ですが、乞食に見放されたのは芸界広しといえどもまず私でございましょう。でもそのときばかりはおかしいような情ないような、われながらへんてこ[#「へんてこ」に傍点]な心もちになりましたよ。
 そのうち、今度はその昼席へも出られなくなってしまった。というので夜分は襟垢のついたものでもわからないが、昼間はお客さまに失礼でそんな色の変わったものを着ては出られない。
 しかたがないので死んだ先代の柳條さんたち四、五人と苦しまぎれに足利へ興行に行ってみたのです。するとこれが初日に七人しかお客が来ない。どこにもこうにも、これじゃ二進《にっち》も三進《さっち》もゆきやしません。
 東京へ帰るにしても五人の頭へ四人分の路金《ろぎん》しかない。しかたがないのでたまたま足利の芝居へ昔なじみの常磐津の鎌太夫が来ていたのを幸い、皆には先へ帰ってもらい、私だけその座に七日つかってもらって、やっとほんの雀の涙ほどのお宝をいただいて後からみんなを追い駆けました。
 ところがまぬけなときはこうもまぬけなことになるもんですかねえ。途中あれはなんといったでしょうか、渡船《わたし》がある。私にこの船賃がないんです。といってまさかに泳いでも渡れない。すっかり途方に暮れてしまっていると天の助けかすぐ脇の一膳めし屋へ、額へ即効紙を貼った汚い婆さんがジャカジャカ三味線を弾いて、塩辛声で瞽女唄《ごぜうた》のようなものを歌って門付《かどづけ》をやっているんです。得たりとそこへ飛び込んでいって無理にその婆さんに都々逸《どどいつ》を弾いてもらって二つ三つ歌っていたら、入口のちかくでめしを食っていた東京者らしいお職人衆がホラヨといくらかのお銭《あし》を投げてくれました。そのときの天にも昇るようなうれしさ。すぐ婆さんと半分ずつ分けて、おかげでやっとその渡しを渡って、東京まで帰ってくることができました。
 それからすこし経って師匠燕枝の一座《しばい》で横浜へ行きましたが、このとき私が「本膳」を演ったら、その晩、年枝という兄弟子が私を万鉄という牛《うし》屋へ連れていってくれ、お前はたしかに出世をする、うちの師匠は誰の芸を聴いてもすこしあすこがどうだとかこうだとか決してほめたことがないのだが、それが今夜、お前の「本膳」を聴いて、しばらく聴かないうちにすっかり
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