て濡れた目をかゞやかせて栄之丞が、
「ぢや何かえ、太夫、化物の入る前にその座敷へ、この俺に今夜一と晩、先へ入つてゆつくり愉しんで呉れと、あの八つ橋がさう云ふのか」
「ヘイ、そのとほりで」
「フーム」
やゝ感嘆、此を久しうしてゐた栄之丞だつたが、つゞいて伯龍手を懐中《ふところ》に、その手を胸のあたりからだして顎のあたりを撫廻すと、
「憎くねえ奴だなあ」
何とも云へないその色悪《いろあく》らしい、心憎いほどの巧さ。
が、間もなく私は、拙作小説「春色梅暦」を草するに際し、かの為永春水の原作を翻読して、唐琴屋丹次郎が許嫁お蝶の申出に対して、全く同様の手法の採られてゐることを発見し、おもはず微笑まずにはゐられなかつた。
なぜなら、彼、伯龍。
年少、師匠伯山と横浜公演に赴いた砌り、兄弟子《あにでし》にあたる「日蓮記」の巧かつた柴田南玉と古本屋を漁つてゐるうち、偶々「梅暦」を発見し、以来、一と方ならない為永の信者となつて、その作風に大いなる影響を与へられたと聞知つてゐたからだつた。
「オイ伯龍さん、あの『百人斬』で栄之丞が顎を撫でるところは丹次郎を応用したねえ」
変化《へんげ》の正体を見現《みあらわ》したと許り、晩年、放送局であつたとき私が云ふと、
「…………」
黙つて彼は、さも忌々しさうにニヤ/\した。
伯龍は師匠伯山には殆んど教はるところなく、近世世話物の名人と呼ばれた一立斎|文慶《ぶんけい》(荷風先生「築地草」参照)に、話術は元より、幕末風俗に付いて教はるところ少くなかつた。
たしか文慶は、お数寄屋坊主だつた上に、前述の「美の吉ころし」の美の吉とも御親類筋で、その位牌を常に飾つて拝んでゐたと云ふ位の幕末の直参にはあり勝ちの、所謂「相馬《さうま》の金さん」だつたから、伯龍のやうな廃頽期の江戸の世相人心を描破するものにとつては、どれ丈けその見聞談が薬となつたか分らなからう。
かくて、一立斎文慶の薫陶と、為永春水文学の影響とが、あの江戸後期浮世絵を見るがごとき「伯龍話術」を完成させたのだと云へる。
「ウム」
もう一ぺん肯《うなず》き直して、急にニコ/\しだした栄之丞は、
「太夫、よくしらせに来て呉れた」
心から嬉しさうに云つて、
「あのウ」
台所にゐる妹の方へむかふと、
「阿波太夫さんに、焼酎が冷えてるだらう、それから桃があつたな、差上げて呉れ」
「ハイ」
やがてよく冷えた焼酎と、いくつかに切つた青桃がそこへ運ばれ、遠慮なく阿波太夫は御馳走になる。
冷し焼酎と青桃。
此が又、いかにもそのころの「夏」の風物詩らしくていい。
いまとちがつて、仲間《ちうげん》か折助でなけりや当時の人たちは、滅多に焼酎なんか飲まなかつた。たゞ、夏のうち丈け、暑気払ひと称して、愛飲した。
恐らくや、栄之丞住居の裏には、はね[#「はね」に傍点]釣瓶のある掘抜き井戸があつて、けさからそこに冷やされてゐた焼酎だらう。
そして、熟《う》れながらに青い/\桃の実。
今日の水蜜桃でも、天津《てんしん》桃でもない、混りツ気のない、日本の青桃《あをもも》である。
……そのとき廓の屋根の並んで見える北空《きたぞら》は、およそ夏らしく桔梗いろに澄みに澄んで、遠く蝉の声さへ聞えてゐたらう。
四
「その晩、八つ橋の許へ取つてかへした宝生栄之丞は、やがて次郎左衛門にその姿をみつけられるやうなことになります」
やゝ早口ながら、ネツチリと、ナンドリと、含み声で伯龍は、それが癖の、上唇《うはくちびる》と下唇とをとき/″\ペロリなめ廻しながら、
「そのとき、次郎左衛門は、栄之丞の前に手を仕《つか》へて、男として一生の頼みには、どうか一ヶ月丈けこの八つ橋を、退《ひ》かせて自分の手許へ置かせて呉れ。
さうしたら、必らずお前さまと添はせて上げよう。
恥を包まず申上げるが、じつは自分が生れも付かぬ松皮疱瘡になつたため、幼いときからの許嫁《いひなづけ》は、急に縁談を、破談にして来た。
その口惜しさは、心魂に徹して忘れられない。
八つ橋花魁を、一と月でいいから、手許へ置度いと云ふのも、所詮はその許嫁を見返してやり度いばつかりだ。
どうか、どうか、栄之丞どの、分つて下されと、心から次郎左衛門頼み入ります。
そのため、一たんは承諾した宝生栄之丞でありましたが、あとでよく/\考へて見ると、やはり一ヶ月でも八つ橋を離しとも[#「とも」に傍点]ない。
可愛い男の栄之丞が反対をするので、八つ橋もその気になつて、たうとう次郎左衛門の身請《みうけ》を断ります。
男の面目をだいなし[#「だいなし」に傍点]にされた次郎左衛門、堪忍袋の緒が絶れて妖刀千手院村正、水も溜まらず斬つて棄てると云ふところから、なづけて籠釣瓶《かごつるべ》の鞘を払ひ、八つ橋、栄之丞をはじめ、数多の人を殺《あや》めます。『吉原百人斬』のうち、宝生栄之丞住居の一席、尊いお耳を汚《けが》しましたが、この辺で、終りを告げることにいたします」
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伯龍の「吉原百人斬」は、八つ橋と栄之丞が歓語の章《くだ》りより、八つ橋は全然かげ[#「かげ」に傍点]にゐるこの住居のシーンの方が、余程艶麗である点がおもしろいとおもふ。
近世、この「百人斬」を得意とした人に、講談では錦城斎典山、浪曲では春日亭清吉があつた。今日では、講談に馬秀改め小金井芦洲、桃川如燕があり、浪曲で桃中軒鶯童が数へられよう。
人情噺では、御一新のころ、初代小さん(春風亭《しゆんぷうてい》をなのつてゐた)があつて、此を十八番としてゐた。
この小さんは、美音で音曲にも長じてゐたが、ひどい大菊石《おほあばた》でその醜男《ぶおとこ》が恐る可き話術の妙、傾城《けいせい》八つ橋の、花に似た顔《かんばせ》の美しさを説くと、満座おもはず恍惚となる。
さんざ悦惚とさせておいて、
「さてそれに引代へまして、相手の次郎左衛門はと申しますと、とんと私のやうな顔で」
と、ヌーツと自分の菊石面《あばたづら》を突出し、今度はギヨツと寒がらせたと云ふ。
水際立《みづぎはだ》つた演出ではないか。
佐野次郎左衛門百人斬の顛末は、かの「洞房語園」には、ほんの数行、誌《しる》されてあるに過ぎない。
「次郎左衛門、捕手は犬の糞を踏み」と、川柳点ではかう屋上の捕物を詠んでゐる。
「籠釣瓶花街酔醒《かごつるべさとのえひざめ》」として、三世河竹新七が、初代市川左団次のため劇化したのは、明治廿一年五月の千歳《ちとせ》座(のちの明治座)でもちろん講談や人情噺の方が、その以前からあつた。
つゝしんで、神田伯龍の冥福を祈り度い。
[#地から1字上げ](昭和廿六年早春・伊豆古奈温泉客舎にて稿)
底本:「日本の名随筆 別巻15 色街」作品社
1992(平成4)年5月25日第1刷発行
1997(平成9)年2月20日第4刷発行
底本の親本:「あまとりあ」
1951(昭和26)年4月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2008年12月16日作成
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