の一家の一人一人へ祟っていく凄惨さを中心に掘り下げていったなら、よほどおもしろくはなりはしなかっただろうか。つまり私は作者自らも謂っているところの「江島屋騒動[#「騒動」に白丸傍点]」でなく、あくまで「江島屋怪談[#「怪談」に白丸傍点]」でありたかった。つまり圓朝のアッシャ家の没落といきたかったのだ。全篇のほとんど大半をそういう怪奇と戦慄で仕立てていって、尚かつとどのつまりを善因善果の解決にまで持っていって持っていけないことはゆめなかったろうと信じている。
 何れにしてもこれは圓朝稀に見る不傑作であると同時に、しかもよく今日まで名声を克ち得ているのは、あえて再びいうが花嫁入水、老婆呪詛のあまりにも卓抜であり過ぎたためである。全くこの二席の空高く浮く昼月の美しさに比べ見て、なんと他のことごとくの闇汁のゴッタ[#「ゴッタ」に傍点]煮の鵺《ぬえ》料理の、ただいたずらに持って廻り、捏ねっ返して、下らなくでき過ぎていることよ。
 でもその持って廻っている十何席の間にも幾度かその場はその場としてなりの技巧の妙、会話の味、描写の冴えを見せているところ十指にあまるくらいであることはいう迄もない、いちいちの引例は略させて貰うが。
 おしまいに気のついたこと特に二つ書く。元仲と林蔵の会話にじつに屡々「君」「僕」がつかわれている。「牡丹燈籠」の新三郎、萩原間にもまた「君」「僕」がある。ほんとうに江戸の日の医者とか(元仲も志丈も医者あるいは医者くずれである)通人とかそうした人たちの用語にはこの「君」「僕」の用語があったのだろうか。それとも、時、文明開化の真っ只中、私たちが意識して自作の中で古風のいい方を時にやや現代風に変えるときがあるように、圓朝もまた心得ていてこの文明開化語を起用したのだろうか。大方の示教を得たい。
 もうひとつ倉岡元仲の父を倉岡元庵と名乗らせていることであるが、『圓朝全集』第十三巻の鈴木行三(古鶴)氏が『圓朝遺聞』を見よ、「妻子の事」の章に、
「圓朝は(中略)不図した事から御徒町の倉岡元庵というお同朋の娘お里との間に一子を挙ぐるような間柄になった」
 云々とある。
 このお里との間へできた「一子」が、のち[#「のち」に傍点]陋巷《ろうこう》に窮死した朝太郎で、私の『慈母観音』という小説にはその若き日の姿が採り上げられている。お里は圓朝と別れて失意落魄の境涯に入り、その母
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