徒刑囚特赦減刑人
            猿猴小僧事
 明治噂白浪三羽烏一人
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本名 市村栄次郎
  旧福井県士族当四十七年
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とこう書いてあって(明治白浪の三羽烏とは、他に鼬《いたち》小僧や雷小僧などが数えられるのだろうか)そのあと明治十六年には、京都の某貴族邸から二葉の鏡を盗み出して捕縛、翌十七年京都監獄を放火脱走、またまた北海道乗治監へ護送後も石狩川に架設の三百二十有余間の電線を伝わって逃亡した等々、仔細にその罪状が極めて猟奇的な筆致で紹介されている。
 高座から桟敷へ。針金張りめぐらして身も軽く渡ってのける、太郎の監獄破りの離れわざは、なるほど、この猿猴栄次を宗としたものにちがいない。
 同じ時、長谷川先生のおたよりの中には、またもう一ついかにも日本太郎らしい逸話が書かれてあった。
 それは、今の「東京新聞」、その頃の「都新聞」の演芸部へ、一日、談判があると言って例の柔道着には握り太の桜の洋杖で、太郎、堂々と乗り込んできた。
 須田栄君が応待に出ると、いきなり懐中から短刀を取り出して彼、ズケリと卓子の上へと置いた。
 須田君もさすがに心中いささかギョッとしていたら、急がず騒がず悠然として、やがてのことに日本太郎はその短刀で、醜く長く伸びていた己れの手の爪を一つ一つ削りはじめたというのである。
 彼の全面目が躍如としている。
 私の聞き知っている逸話では、本所辺の縄のれんで、三下のあンちゃんが、因縁をつけてしきりに管を巻いていた。
 居合わせた太郎がこの喧嘩を買ってでて、恐らくその須田君をちょいと冷やりさせたのと同じ短刀だったのだろう、ギラリ鞘抜き放って若いのの前
「ヤイそこな奴、こいつが手前ア怖かぁねぇのか」
 と芝居がかりで飛び出していって睨みつけたら、
「冗、冗談言うねぇ」
 さすがにチンピラでも、やくざものの端くれ、
「そんなものが怖くって、縁日の肥後守を売ってる爺さんの前が通れるけえ」
 とばかり、これがてんで受けつけない。
「おやこの野郎」
 一瞬、いささか、鼻白んだが、さりとて到底このまま引き下がってしまえるわけのものでもない、ようし一の矢が外れたらすかさず今度は二の矢といこう、どっこいこっちにゃまだまだ奥の手がちゃあんとあるんだとばかり太郎、
「若僧。じゃ、短刀は怖くねぇのか」
「ねぇ!」
「ウムいい度胸だ」
 ニンマリ笑って、
「ならこれだ今度ァ」
 いきなり懐中へ手を入れるが早いか、ニョロニョロと掴み出した、かねて寵愛の赤棟蛇、ゾロッとそいつを卓子の上へ置いたら、
「ウ、ウワーッ」
 よっぽど[#「よっぽど」は底本では「よっほど」]蛇嫌いだったとみえる、あンちゃんたちまちいまし方までの威勢はどこへやら、全身|俄《にわか》に強烈な電気にでもかかったように硬直して棒立ち、身体中真っ青になりつくして、後をも見ずにアタフタ表の方へ駆け出して行ってしまった。
「ざまァ見やがれ青二才め」
 凱歌を上げると日本太郎、どうやら清水次郎長か国定忠次にでもなったつもり。千古の危急を救ってやったここの主人からは御礼の百万遍も言ってもらおうとふン反り返っていたら、あに図らんや、とたんにコック場の方から出てきた主人の機嫌がすこぶるよくない。そうして、言った。
「もしその蛇を持ってるお客さん、余計な真似をしちゃ困るじゃないか。今の若い衆から、うちはいまだお勘定もらってねぇんだ。お前さんあの人の分もいっしょに払ってっておくんなさい」
「…………」
 この日本太郎、『寄席囃子』の中の随筆では娼妓上がりの娘にいい旦那ができ、晩年すこぶる幸福と書いたのだが、そののち古川緑波君その他の話を総合してみるとやはり、それはまちがいでどうやら晩年は悲惨だったらしい。私は衷心、この説の誤聞であることを祈ってやまないが、それにしても彼が死んでからもう何年になることだろう。歴史は繰り返す。私は最前からこの短い文章の中で二度もこの言葉を記したけれど、わが日本太郎のごとき存在だけはついにそののち今日まで寄席の歴史の中へ再びとは生まれてこなかった。恐らく今後悠久にああしたよきげてものは、再生してこないのではなかろうか。



底本:「寄席囃子 正岡容寄席随筆集」河出文庫、河出書房新社
   2007(平成19)年9月20日初版発行
底本の親本:「艶色落語講談鑑賞」あまとりあ社
   1952(昭和27)年12月刊
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年1月13日作成
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