ことはない。
鏡花の「高野聖」「註文帖」、露伴の「五重塔」、風葉の「恋慕流し」、幽芳の「毒草」「己が罪」、紅葉の「金色夜叉」から、晩年は秋成の「雨月物語」まで演じて、
「あれはまさに徳川夢声の先蹤《せんしょう》をなすものだったねぇ」
と、いつもそのたんび吉井師は、感慨深げに呟《つぶや》かれるのだった。
私の話術は、師父たる先代円馬が手ほどきで、ついでこのE師に開眼させてもらったもの。E師は私の母校たるK中学の英語教師から講談師に転身したのであるが、私が入学した時分には、もう薄暗い昼席の釈台を叩いて、若い講談ファンをよろこばせておられたから、英語の方の開眼はさせてもらわなかった。
前置きが長すぎてしまってごめんなさい。
このE師を、仲間があだ名して「尾形清十郎」という。尾形清十郎とは、落語「のざらし」へ出でてくる、向島へ釣りに出かけて路傍の骨に回向をし、その晩、その骨が艶麗の美女となって礼に来て喋々喃々《ちょうちょうなんなん》、おおいに壁一重隣の八さんを悩ますあの老人であるが、わがE師もまた、日頃、とにかく鹿爪《しかつめ》らしいことを並べ立てながら、じつはまったくさにあらずで、おおいにその道のエキスパートにましますというあだ名なのである。
それにしてもE師の情痴はあくまでE師らしく、彼女と同衾《どうきん》の真っ最中でも、抱擁の最高潮時でも、いちいちそのこと自身にいやに糞真面目な理屈がついて廻っていて、それがよほどおかしいのである。
なかんずく、おでこのしゃっぽと言うあだ名ある(よくあだ名が出るが)情人が出きた時の話など、E師の面目躍如たるものがある。おでこのしゃっぽとは、おでこがしゃっぽ(帽子)を冠って歩いてるような顔だという意味。けだし、あまりいい女じゃない。
だのに、このおでこのしゃっぽ、ひどいひどい浮気者で、以前は芝の蒲団屋の娘だったとかかみさんだったとか、蒲団屋のかみさんだけにやたらに誰とでも寝たのかもしれないが、この間死んだ伯鶴、先代小円朝、今の金語楼、等々まだまだそのほか大正末から昭和へかけての講談落語界には有名無名の関係者がたくさんあった。
E師は、敢然とこの多情なおでこのしゃっぽの旦那に納まったのであるが、その旦那たるにもまたちゃんとひとかどの理屈がついていた。
「あの女があまり哀れであるから私は関係を続けている。私のような一方の人士の情涙を彼女が受け入れれば、自らその性格も変わるであろう」
って、変わりゃしないよ!
なにしろ全然大真面目の、いとど重々しい越後訛りで、こう言うのだからおかしかった。
論より証拠、おでこのしゃっぽの依然変わらなかった証拠には、E師が定まるパトロンとなったのちも、彼女はちょいちょい浮気をした。そしてばれた。
一日、とうとう堪忍袋の緒をきらしたE師は、彼女を拉《らっ》して竜泉寺あたりの風雅な宿屋へと出かけた(ああ、その頃の台東区竜泉寺には、いまだ美しい蓮田があり、葭切《よしきり》が鳴き、アベックに好適な水郷だった!)。そうして、宿屋から借りた剃刀で、彼女のある部分を無毛にしてしまうと、今日もまた極めて暗鬱な調子で、
「今後ともお前はその無毛の部分を見るたびに、今回の浮気の自戒としなさい」
と一場の訓辞をのこしてE師、悠々、昼席へ出かけてしまった。残されたおでこのしゃっぽはすぐにかねて交渉のあった前座のFを呼び寄せると、
「今、Eの奴がね、私のをみんなあたっち[#「あたっち」に傍点]まったんだよ」
「へーェ、いったいどんなにあたったんですネ姐さん」
「ホーラ、こんなだよ」
クルリ無遠慮に彼女が展開したとたん、好機到来とばかりよろしくF青年、漁夫の利を占めてしまったというのである。
そのE師は玉川の僧院に余生をおくって失明、戦後逝った。竜泉寺にもう蓮田が見られないようおでこのしゃっぽの消息もようとしてわからない。あるいはもうE師のあとを追っているかもしれない。
前座のFは、いまや現役のパリパリで、この文章の中にも登場しているが、さて、「ワタクシハダレデショウ?」
なに、筆者自身じゃないか――って、冗、冗談だろう、ダ、誰が!
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寄席ぐろてすく
昔々大正の頃、場末の浪花節の寄席へは、明治三十年代一世を驚倒させた例のお茶の水事件のおこの殺しの真犯人松平紀義が出演しては、しばしばその懺悔談を口演した。私が中学生だった大正中世にも根津あたりの町角で白地へ三葉葵の定紋いかめしく黄金《きん》色に印刷した一枚看板のポスターがひるがえっていたことを、今もまざまざ目先に思い浮かべることができる。
昭和四、五年頃の秋の夜には、神田三崎町の三市場というやはり浪花節の定席へ、怪賊五寸釘寅吉の看板がいと佗びし気に上がっていて、私は今は亡き詩友宮島貞丈と
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