「かんかん虫は歌う」(吉川英治原作映画主題歌)をレコードで踊ったりして、一味、新鮮な匂いを漂わせた。吉井師が牧野宮島両君と桟敷へ現れたり、久保田万太郎、村上浪六、岩田専太郎、野村無名庵諸家も、当時近隣におられたので、客席にそのお顔を見た。一夜、いつかかいた「マリアの奇蹟」という西洋芝居噺で、牧師が「罪を憎んで人を憎まず」と盗人をさとすのを、「人を憎んで罪を」と反対に言い、正直に「まちがいました」とさらに訂正したので客席が沸《わ》き、大失敗をしたことがある。以来私はこう悟った。たいへん人が悪いようだが、リズミカルに言えたまちがいならなまじなまなか訂正なんかしないで、堂々とまかりとおってしまうことである、と。現に邑井貞吉翁は、「頼政|鵺《ぬえ》退治」に音吐朗々あの調子で「時鳥がホーホケキョウと啼いた」と演ってのけたことがあったが、客はほとんど気がつかなかった。反対に「伊井直人」で「薙刀《なぎなた》の尻手」と言うべきを、槍同様に「石突き」と言ってしまった時、堂々と客席を睨め廻して、かえって客の方がまちがったかのような錯覚を与えた上、悠々そのあとを講じ続けたは、近年では田辺南龍老あるばかり。あの平常がおとなしい南龍老にしてこの大胆、この気魄と、少なからず私はおどろき、敬服したことである。
 私は、この時分権太楼君が独立していたので、旧師三語楼氏へ柳家を返上し、暁亭を樹立せよと極力勧めたことがある。すなわち、暁の鐘がゴンと鳴るという洒落である。しかるに、むしろ野暮な闘士に近い同君は、
「今に落語家も柳家Aだの、柳家Bだのができましょうよ」
 とあくまでこの点モダーンボーイだった。幸いにして敗戦後の今日も、落語界にはむかし家今松だの、山遊亭金太郎だの、鶯春亭梅橋だのと、風流めかした芸名のみが栄えているのもまことにめでたく、A介B介などという名はかえって漫才の方に輩出しだした。
 この動坂亭の興行はなかなかに有望だったが――と書いて今小憩し、ラジオへスイッチを入れたら、山野一郎君の「なつかしの活弁ジンタ」が音楽入りで「ラジオ東京」から放送され、私は目裏を熱くして聴いた。かくてわがこの回想録には、いっそうの拍車が掛けられることだろう。――では、どうして、その興行が中絶してしまったかといえば、当時の私が性格破産したアルコール中毒者なら、若き日の権ちゃんがあれでいて「天災」の紅羅坊名丸のいい草じゃないがすこぶる恚乱《いらん》のたちで、無闇に怒りぽかったから、到底永続きのするわけがなく、私はこれからしばらく高座を退いてしまった。
 この時代の権太楼夫人が、戦後、離婚して家庭裁判まで起こし世間を騒がせた女性で、弱り目に祟り目で相前後して権太楼君は記憶喪失症になって病床にあること多年だったが、昨秋からようやく再起、今度再婚もしたと聞く。往事を思えば、同君の回復もまた、速からんことをせつに祈りたい。
[#改ページ]

    第三話 談譚聚団

 これから昭和八年の春、再び夜逃げをするまで私は、滝野川西ヶ原の陋巷《ろうこう》にいた。
 すぐ裏が寄席で、夜毎、寄席噺子が洩れ聞こえてくると、寄席へのノスタルジアに全身全魂が烈しく揺《ゆす》られ、この心事をそのまま、のちに私は小説「圓朝」へ写した。
 ここにいるうちに前年面識のあった大阪島の内柳屋画廊の女店員でAという娘と文通しだし、家庭生活に絶望していた私は、西下して忍び逢ったが、彼女の日記が寄宿先の伯母に発見され、たちまち郷里である山口県へ帰されてしまった。
 昭和十九年夏、戦争非協力文学のゆえをもって私が禁筆の厄に遭っていた時、結婚三周年記念私家豪華限定版の名に隠れて『寄席噺子』なる随筆集をせめても開版した時、彼女と同じ山口県の某寺から一部を申し込んできた女性があった。姓名も筆蹟も違っていたが、十年の歳月は婚後その通称を改めることもあろうし、筆蹟もまたずいぶん変わるものである。「いつまでもおん睦じくあれと祈ります」という意味の手紙が送本後に届いたので[#「届いたので」は底本では「屈いたので」]、チラと私の心にありし日のA女の、仄白い顔が思い出されたことだった。
 再び滝野川の陋宅をも失踪しなければならなくなったのは、その頃交りを結んだ小金井太郎一家が転げ込んで来て、毎晩酒乱で太郎が凶刃を揮《ふる》うため、私は神経衰弱になってものが書けなくなってしまった上に、博文館関係の雑誌が不況で二、三急に潰れ、まったく収入がなくなってしまったからである。居候の太郎一家を残して、こちらがドロンをしてしまったのだった。
 この時にことごとく蔵書とレコードとを入質して流してしまったが、そのレコードの中に、盲小せんの「ハイカラ」、初代圓右の「五人廻し」、先代文團治の「四百ブラリ」のあったのは惜しんでも惜しみ足りない。
 小金井
前へ 次へ
全20ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 容 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング