において二つが二つとも叶えられなかったその心の打ち身の名残りであろう。今や顧みて不憫な奴めと思わざるを得ない。
しかし私は前にも言ったごとくたった一人、もしくは野郎同士ばかりで、毎晩毎晩寄席通いをした。今の桂文楽君は、当時の私の姿を高座の上から覚えていてくれて唯一の旧知である。私は灯が点くとさびしくなり、さびしくなるから寄席へ行った。蕩児のように。が、寄席へ行って太神楽や手品の、米洗いとか竹スとか砧《きぬた》とか錣《しころ》[#ルビの「しころ」は底本では「しろこ」]とかの寄席囃子を聴き、当時はいまだいまだ正統派な軽妙江戸前のが多々といた万橘三好、鯉《り》かん、勝次郎、枝太郎、歌六などの音曲師のうたう市井の俗歌を耳にすると、いっそうホロホロとさびしくなった。ましてそこの寄席に、美貌なるアベックの寄席ファンでも見出すならば、なおさらである。
でも私は寄席通いが止められない。また行く。また、出かける。あまり毎晩毎晩同じ顔付けの寄席へばかり行っていたもので、とうとう一夜、誰がどんなギャグを言おうと全然笑えなくなってしまった。この時ばかりは打ち出しののち表へ出て、もうもう寄席もあまりにも食傷したから、当分行くまいと心に誓った。にもかかわらずあくる晩の灯点し頃がおとずれた時、私の姿はやはり同じ寄席の片隅に見出された。神田の花月だったろうか、それとも白梅だったろうか、ちょっと今記憶にないが、ともに今はない、たしか神田の寄席である。ところが昨晩に相違してこの晩はたいへん笑えた。じつに無邪気に無心に笑えた。そういっても、出てくる人出てくる人のギャグをひとつひとつ笑い得た。思うに私の寄席修業のこれが第一の「悟り」の日であったらしい。同じ頃神田立花亭主人大森君は、私に寄席の淫乱という尊称をあえて奉《たてまつ》ってくれた。世の中には、今日もかつての私のごとくこのような苦労苦患を重ねた寄席ファンがあるだろうか。以来、今日まで二十年、私は、寄席の楽屋から、客席から、高座のユーモアに子供のごとく哄笑することができる。ゆえに、私はあまり馬鹿笑いをして高座や他の聴衆の迷惑になるようなお客も困るが、ひたすら笑わないでいさえすればそれが大した落語通だと心得ている人たちもまた大悟以前のファンとして高く評価し得ないのである。徳川夢声君のごときも先年私が大阪から笑福亭松鶴君を招いて独演会を企画した時、その「しゃっくり政談」を客席からじつに愉しそうに呵々大笑して聴いていられたことを、あえて特筆しておきたい。
年少から寄席を愛《め》で、落語を愛してきた私のその頃のメモは、また他日稿を新たとすることとして、ここではあくまで青春感傷の日の私を中心に大正大震以後から昭和戦前までの落語界の人々について語ってみたいが、その頃東京の落語界には三世小さん、先代圓右、先代志ん生、三語楼、小勝が落語協会の巨頭で、今の左楽、先代|燕枝《えんし》、華柳、先々代柳枝、先代助六、先代今輔、先々代正蔵、先代圓生、当代文治が睦《むつみ》会に参加していた。金語楼と先代正蔵が小三治で前者に属し、まさしく鎬《しのぎ》を削って売り出し中だった。金語楼君の「落語家の兵隊」のごときたしかに優秀な軍隊軽蔑落語であって、徴兵に閉口するまくらのごとくじつに痛快そのものでおかしく、私は今にその一言一句を記憶しているし、正蔵君の「源平」や「お七」のことに籠の鳥を歌う前後の愉しさも、晩年の数倍活気があっておもしろかった。年来の友人だったからあえて正直に書かせてもらうが、晩年の同君は生活的に余裕ができすぎ、それは個人としてはもちろん慶賀に堪《た》えないけれども、もういっぺん今日の少うし間延びのしすぎた話法でなく、あの日あの頃の弾みきった呼吸を取り戻してもらいたいものだと思ったことだった。両者ぐんぐんと売り出していくその人気は、のちの歌笑、痴楽を[#「痴楽を」は底本では「痴薬を」]上超すものがあった。
急逝して私を哭《な》かしめた四代目小さん君はその頃馬楽で、手堅い渋い話術の中に警抜な警句を言い放ち、一部の寄席ファンをして随喜せしめていた。睦会の方には、いまの柳橋、柳好、小文治、文楽君が若手四天王で売り出していた。落語界というところ、明治中世に柳、三遊と別れて以来、(私はその柳、三遊最終期以来の寄席修業者だったが)柳が女子供向けの色物たくさんで、三遊が本格話術を看板の渋向き、この二つの伝統は不思議に今日といえども継承されている。大正末年には落語協会が三遊派的で、睦会の方が柳派的。現今では文治、文楽、志ん生らの落語協会が三遊派的で、柳橘、柳好、小文治、今輔の芸術協会が柳派的である。しかも圓朝以来の本格話術をもって鳴っていた三遊派の方にへらへらの万橘やすててこの圓遊が現れ、小さん、圓右君臨していた落語協会の方から三語楼、金語楼
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