はない。でもあまりにもスターでありすぎた彼女は、男連れで人中へ出たので、いつもおずおずしとおしていた。しかもこの晩限りで私たちは当事者から一時仲を割かれ、病弱だった彼女は、療養生活にやるというのを表面の理由として伊予の一村落へ向けて出発させられてしまった。取り残されたこの私の、いうようなき失望よ、落胆よ、また悲嘆よ。
女はその年の暮れには健康|恢復《かいふく》して再び宝塚へ帰ってきたが、二年のち、やっぱり別れた。その理由はかつて「下町育ち」という小説の中で書いたからここではいわない。ただそのおしまいまでプラトニックであったため、かえってつい十年ちかくまで不忘の幻になって目先に蘇り、私の半生を苦しめぬいて困った。後年、柳家三亀松が宝塚のスターを女房にしたと聞き、かりそめにも「新婚箱根の一夜」居士などに惚れる宝塚少女があるのに、この自分が掌中の白珠をむざむざ喪失するなどは何ごとぞと、文字どおり私は全身の血の冷え返るのを覚えたくらいだった。話が前後するが、私の宝塚の彼女は、その三代目小さんを聴いた翌年九月、休暇を取ってはるばる上京してきた。私はその頃好きでもあり別懇でもあった先々代林家正蔵に頼んで、もし私が情人と君を聴きに行ったらぜひぜひその晩は十八番の「居残り佐平次」を演ってくれと言ったものだったが、その晩は彼女の主張で築地小劇場へ、ゲオルグカイゼルの作だったろうか、当時流行していた表現派戯曲「瓦斯」の方を見物に行ったので、ついに正蔵を聴くの一夜を共有することはできなかった。小劇場の帰り月淡き震災後二年の築地河岸で、私たちは幾度か熱いくちづけを交わした……。
さて、そのごとく寄席ファン時代はアベックで名人たちを聴くことに憧れつづけ、次いで自分が高座へ上がるようになってからは何とか高座の人を情人として、なるべく彼女の上がった直後の高座へ上がりノメノメとしたことを言いたいなどと「湯屋番」の若旦那さながらの愚かな夢想を抱きそめた。同時に、鳴り物入りの落語を多く演じていた私は、その人に専門の下座(ツレ下座と仲間のテクニックでは言う)を兼業してもらいたいと念願していたこともまた事実だった。
よく青春期に耽読した文学は、その人の終生の人生観芸術観を支配するというけれども、私のこの二つの観念は、鬢髪しばらくに白きを加えた四十余歳の今日といえどもまったく変わらない。けだし、若き日
前へ
次へ
全39ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 容 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング