東西の落語界には、私の側近から桃源亭花輔(今日の梅橋)、三笑亭夢楽[#「夢楽」は底本では「夢薬」]、桂米朝君その他、文学徒の落語家が続出してきているし、私はいまだいまだあの頃の越山翁より十幾歳も若いが、今やほとんど同様の感慨に耽らざるを得ないのである。
 ところで圓馬の忰になって本行どおり「寿限無」を教わった時の詳細はそっくりそのまま「寄席明治篇」というかつての長篇小説の中へ描写してあることを、この際ここで白状しておこう。孤児の私は、心から圓馬の芸と人とに傾倒し、ほんとうの親のようにも愛慕していた。圓馬夫人もまた近所の人たちに「おっちゃんが若い時東京で生ましてきた子なのやで」と言っていた。そう言われると近所の人たちも「ほんによう似てはる」と言ったものだ。が、師父圓馬と私とは若き日の谷崎潤一郎氏のごとく似かよってはいず、圓馬は角張り、私は細長い顔立ちであるが、濃い太い眉と、険しく大きい目とだけはいささか似ている。初手から父子だと踏んでかかれば、それでもどうやら見る方では勝手に類似点を発見して肯《うなず》いてくれるものなのであろう。でも残念なことに肝腎の私が圓馬夫人の手引きで持たせてくれた家庭の方は全然うまくいかなかった。私はあくまで圓馬好みの意気なおかみさんが選ばれてくるものと安心して一任していた。まして相手はさる遊廓なにがし楼の娘だというのでいよいよ安心しきっていたところ、そうしたところの娘なのに雁次郎をいっぺんも見たことのないという風な女が私と生活をともにしだした。圓馬夫人は文士というのは学者のような堅苦しいものであると確信し、その文士の中でも私のごときは進んで芸人社会へ飛び込んでいったりしている変わり種の存在であるという点を、当初に計算してかかられなかったため、いたずらにお互いが悲劇を将来してしまったのではある。
 いや、こう書いたら、その前にあなた方は言うだろう。かりにも正岡容ほどの侍がそんな青春二十一や二でいくら圓馬盲拝の結果とはいえ、どうしてくだらなく平凡な見合結婚をしてしまったのだ、と。仰せいかにもごもっともであるが、まあお立ち合いしばらく待ってください。人間目がでなくなるとこうもどじにいくものかと自分ながら呆れるほどその時代の私は人生万端駄目に駄目にとなっていき、つまり私はその相次ぐ不幸の連続にもろくも惨敗してしまったのである。まずその最初がこうである
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