い》」といふ。「五十二番お二人さん御酒台、ゴブが二」といふ具合に女中が通すのだ。
符徴《ふつちよう》の下の※[#「I」に似た記号、111−10]は一、※[#「L」に似た記号、111−10]は二、※[#「□」に似た記号、111−10]は四といふわけで、しめて合計が二円二十六銭也。そのわきのたま[#「たま」に傍点]とあるのは、その持ち番の女中の名である。
実はぼくは中学を出てから白馬研究会へ通ふことになるまで、絵かきになるまでは、右の帳付けをするいろはの助帳場《すけ》を当分やつてゐたのである。
まだ――こんな風な雑識は沢山あるけれども切りがないから、探景の図に戻つて、この界隈の元在りし家の軒別をざつと表解風に書いて見よう。
図の手前の樹木のあるところ三角原は、焼打騒動の時に(明治卅八年)、この三角原と浅草橋とが「戦場」となつて人を橋向うへ渡すか渡さぬかの、夜つぴて「戦闘」のあつたところである。焼打の夜更けには佐太郎などは向う脛を血だらけにして、ハアハア息を切らせながら大戸のくぐりを開けて帰つて来た。ぼくは女中達や家の者と一塊りにかたまつて、二階の色ガラスのところから手に汗をにぎつて一晩中三角原を見物してゐた。
この原に一本高くアーク燈が立つてゐた。その「孤光燈」の焼け切つたシンが落ちたものであらう、朝学校への行きがけにアーク燈の柱の下へ行くと(学校は図の浅草橋のすぐ袂だつた)、きまつて三寸ほどの、黒い丸い棒が下ちてゐた。われわれはこれをデンキのチンボコと呼んで、珍重したものである。
この図は三角原が一番手前でそのこつち側は切れてゐるけれども、こつち側に、この原のすぐ右手に横山町もあれば「路地」もある訳だし、更に北へと、馬喰町の一丁目から四丁目までが展開する。その中には矢場ぐんだいと称する特殊の一劃(私娼窟)なども突然町中にはさまつてゐる昔の奇観は、数限り無いものがある……。
別に次の一節は、吉川町について特に以前(昭和七年八月)書いておいたものだが、再録する。ぼくの家を含む一帯がその「吉川町」である。
「吉川町、昔時萱葭繁茂し其中に小流ありしが之を埋立て市店を開き葭川町と称し其の後今の字に改む、西両国西広小路にあり、両国橋旧位置の西に当れる地を称す。」
これが明治四十年四月出版の「東京案内」に現はれる公文書風の説明ながらこの本は東京市役所の蔵版ものだ。
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