な老人の顔の、雪月花の広告絵であつたが――しかしこれはあるひは本石町の角の鉄道馬車の曲るところに、こゝには確にあつた、その広告絵との混同かもしれない。銘酒雪月花のびんを両手に捧げて上下《かみしも》姿(あられ小紋)の老人がにこにこしてゐる、これが大きな顔の、この広告絵は、われわれには相当気味悪く感じられたものであつた。(神崎の広告絵はそれではなく、大きなびんと蜂との書かれた蜂印葡萄酒の絵だつたかもしれぬ――何れにせよ、このポスター・ヴァリューは、明治時代の小さからぬものであつたらう。)
そしてトラ横町は、神崎洋酒店の角から、南へ走る薬研堀横町及び米沢町に交叉するのである。
[#「「両国橋及浅草橋真図」模写」のキャプション付きの図(fig47736_03.png)入る]
「両国橋及浅草橋真図」は、丁度ぼくの扱はうとする限りお誂へに写した井上探景(安治)の版画で、前に述べた大平(松木平吉)板の、御届明治十○年○月○日と記入のあるものだ。(この○は何れも一字空白となつてゐる)。――ところで、この図の中程に見える、間口をだゝつ広くとつて、二階前面のガラス戸に五色硝子をあしらつた角店が、ぼくの丸十七年間生活してこゝでウキヨの風に当つた、第八支店いろは牛肉店といふ、飲食店なのであるが、絵の右端に遠くパースペクチブになつて消え込むところが両国橋、そのつき当りに大きく回向院の屋根が見えて、その並びの最右端にぽつんと尖つたものゝ見えるのが、港屋といふもゝんじ屋[#「もゝんじ屋」に傍点]だ。牛肉のみならず野獣肉一切を商つた店で、却々ハイカラにその三階が西洋館になつてゐた。ところが、このぽつんと高く尖つたハイカラの三階へ雷が落ちて、そこの老人がつんぼになつたといふことであつた。
それが明治三十七年のことで、といふのが、ぼくの弟の誕生したのが同じ年、のみならずこの図の馬車の軌道並みにこれが始めて電車になつた年がまた同じなので、記憶がはつきりとするわけである。――ぼくはその時丁度十一歳であつたが、草色のわれわれガイテツと呼んだ電車(市街鉄道であらう)が通つた時には嬉しくて、殊にそれから毎日楽しみとなつた路上の遊戯は、そのガイテツに五寸釘をひかせることである。線路の上に載せた釘がガイテツにひかれると、忽ちぺしやんこになつて、手頃の光つた槍の穂先きが出来る。これを竹の先にすげておもちやにする
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