スクが、順に一つ減り、二つ減りして、私の記憶で云えば、最後に橘屋が六段目の勘平を一幕出すという噂がありました。戦争のいつ頃でしたろうか。あの頃には、これは見ておかないとやがて「後悔する」と私など相当はっきりとそう[#「そう」に傍点]考えたものです。
この旧梨園の引出物は噂だけで、当時事実とならずにしまい、剰さえ、橘屋その人が、やがて「橘屋」に似気ない山の中の温泉場で、亡くなって了ったのでした。
あの頃はしかし日本中メチャメチャの時でしたから、よしや重宝の橘屋の顔、橘屋の足が、視界から消滅しようとも、人はリュック・サック一つ落した程にも思わなかったかもしれません。四等国のあわれは、早くあの時既に兆していたわけでしょう。
その後、幸にして(?)国情平穏となり、殊に近頃では「大」東京に満足の小屋は二軒しか無いというに拘らず、カブキは旧に優る繁栄で続々と新人の台頭を迎えながら、二月(二三年)の若手競演カブキなどもなかなか熱と見栄えのあるものでしたし、三月新友右衛門の名びろめに出した扇屋熊谷の一役なども清新なものでした。
しかし――これは必ずしもカブキそのものがその自力で復興したとは云え
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