役者の顔
木村荘八

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)平馬《へいま》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]
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 羽左衛門を失ったことを転機として――戦争を転機としてと云えば早いが、それではニベも無い――俳優の「顔」も変ったと思います。「俳優」もここには主として歌舞伎(旧劇)畑を云いますが、「顔」を材料にとって述べれば、自然歌舞伎俳優が主となるのは定法でもありましょう。
 羽左衛門は、思えば寂しい中で亡くなりました。羽左衛門の死については、文壇で云えば藤村がそうだったように、当時、戦雲の濃い中だったに拘らず、新聞の報道などに、さすがに大見出しで取扱われたものでした。――しかしこの名優の死は(日本の歌舞伎の歴史から云って)何と云っても慌だしかった戦雲の中で考えられるには過ぎた問題でした。例えばその「顔」だけの問題についても、われわれは再考三考すべき多くの材題をそこに持っているようです。
 簡言すれば、戦争騒ぎのどさくさ最中に梨園のこの人を失ったことに依って、日本はその最後の前代遺産であった「俳優の顔」を、無くしたものではなかったでしょうか。――云う迄もなく梨園にはなお菊五郎、吉右衛門もいますし、幸四郎の長老も矍鑠としています。いわゆる「平馬《へいま》返り」ではないにしても、年八十を越えたこの老優が実盛物語の瀬尾で落入りにトンボを切る(でんぐる返しを打つ)のは、悲壮です。その他、近頃になって頓に、「宗十郎歌舞伎」などという存在の事々しく評家に取り上げられるのも、「顔」で云えばその宗十郎式マスクが少なくなったので、俄かにこと[#「こと」に傍点]惜しまれる現象と考えられないことはない。偶々梅玉が東へ来ると、その玉手御前の※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]たけて色めいた「顔」は、それを人が初めて見たように[#「それを人が初めて見たように」に傍点]、絶讃を浴びせました。
 と云うのが、これを逆に云えば、羽左衛門、梅幸、松助、中車、源之助……達の揃っていた頃には、今月見なければ、来月狂言で珍しくもなく見られたわけで、ことさら珍重もしなかった、われわれの歌舞伎マスクが、順に一つ減り、二つ減りして、私の記憶で云えば、最後に橘屋が六段目の勘平を一幕出すという噂がありました。戦争のいつ頃でしたろうか。あの頃には、これは見ておかないとやがて「後悔する」と私など相当はっきりとそう[#「そう」に傍点]考えたものです。
 この旧梨園の引出物は噂だけで、当時事実とならずにしまい、剰さえ、橘屋その人が、やがて「橘屋」に似気ない山の中の温泉場で、亡くなって了ったのでした。
 あの頃はしかし日本中メチャメチャの時でしたから、よしや重宝の橘屋の顔、橘屋の足が、視界から消滅しようとも、人はリュック・サック一つ落した程にも思わなかったかもしれません。四等国のあわれは、早くあの時既に兆していたわけでしょう。
 その後、幸にして(?)国情平穏となり、殊に近頃では「大」東京に満足の小屋は二軒しか無いというに拘らず、カブキは旧に優る繁栄で続々と新人の台頭を迎えながら、二月(二三年)の若手競演カブキなどもなかなか熱と見栄えのあるものでしたし、三月新友右衛門の名びろめに出した扇屋熊谷の一役なども清新なものでした。
 しかし――これは必ずしもカブキそのものがその自力で復興したとは云えず、幕内の興行政策に依るあや[#「あや」に傍点]で、そうカブキが躍らされているところは多分にある。これを見逃しては「論」にはならないでしょうけれど――何にせよ「復興」して見ると? そこには歌舞伎マスクの足りないことは、却って目に余るものがあります。
 今更のように見巧者が老残の人に走って、宗十郎カブキを伝承するのも、故あることとなります。
 俳優の「顔」には「地顔」と云われたものがあって、今云う素顔ですが、昔の女形は、小屋へ入っても舞台へ立つ迄は相手の立役と顔を合せないようにしたものだと云います。色気が醒めては舞台の情合いがうつらないから、「楽屋」つまり地顔は、見せないようにしたと云う。名優柏筵の言葉として伝えられるものにも「地顔は悪ければ見せず、舞台にて日本全国人に見すべし」というのがあります。これは見識もさることながら、昔はこの「地顔」と「舞台顔」を分けること、それが却って「役者渡世」の定法だったものでしょう。
 云うことをすぐ手前事の仕事へ引いて来るのはいけないかもしれませんが、絵の方で、仕事に習作・制作の区別を立てます。習作が先ず概して云う自然写生のもの、制作がそれから離れた画
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